2013.09.08 sun

「物語」でビジネスも人生もうまくいく? No.7―「聖と俗」

「物語」でビジネスも人生もうまくいく? No.7―「聖と俗」


【対談形式ストーリーボード】


― 目次 ―

No.1―「物語って何?」 
No.2―「探究」
No.3―「旅立ち」
No.4―「手助け」
No.5―「通過儀礼」
No.6―「ライフ・シナリオ」

「物語」でビジネスも人生もうまくいく?
No.7―「聖と俗」
 

(梅本龍夫)
pyankoんは、「通過儀礼を苦しいものでなく、楽しく充実した(?)ものにすることってできるもんなんでしょうか?」と質問をしています。
 
それに対する一番簡単な答は、「ちゃんと準備をすれば大丈夫」というものです。いつごろに「通過儀礼」がやってくることがわかっていれば、そしてそれがどういう中味なのかを正確に理解できていれば、私たちは準備ができます。受験勉強をしっかりして目標の学校に入学するようなものです。
 
そして、もうひとつの答が、「聖と俗」になります。「通過儀礼」とは、神話的に言うと、「聖なるもの」と遭遇する体験です。それは結構たいへんなことですが、すごく充実したことで、たぶん楽しくわくわくすることと言ってしまって大丈夫だと思っています。それが今回のストーリーボードのテーマです。
 
本題に入る前に、pyankoさんとsecoさんにとって、「45歳の通過儀礼」はどんな感じになりそうか、想定やイメージを聞かせてください。あと、どんな準備ができそうか―。
 
「45歳の通過儀礼」は、人生の前半に終止符を打つ時。前半生に「送葬の通過儀礼」をし、後半生の「出立の通過儀礼」をする時です。要するに「人生の折り返し点」ですね。


線路は続く、どこまでも― (ASHINARI)


>① 「死」の自覚

(pyanko)
確かに45歳ころが、ひとつの「通過儀礼」であり、それが「人生の折り返し点」という意味を持つというのは、すごく納得感があります。
 
実際、自然と、そういう意味合いのことに触れるようになってきたのは、その「通過儀礼」の中にいるんじゃないのかなぁとも思っています。
 
20代、30代は、成長する未来にむかって、日々を送っていたものですが、40代になると、だんだんと体力も衰えを感じ、「死」という人生の終点に向けての意識というものが、生活の中に出てくるようになりました。
 
そういえば、興味、関心も変わってきたなぁ。
 
また、次世代の子どもをどう成長させていかなければならないかも、深く考える時期です。
 
「45歳の通過儀礼」は、「終活」じゃないですが、残りの人生を、どう生きたいのか、生きるべきなのかを考え、それにむけての準備をすることになるんじゃないかな、という感じは、持っています。
 
生き方、働き方を含めて、どうありたいのかを、ちょうど具体的なイメージにしようと考えている最中です。
 
そういえば、先日、生命保険の見直しをしました(^_^;)


>② 「欲」との戦い

(seco)
45歳、確かに折り返し地点ですね。

10年後くらいですが、その頃までには全力で社会や周囲のために生きられるようになっていたらいいなと思います。

あぁしたい、こうしたい、あれが欲しい、こうなりたいと、今は自己の欲ばかりなので、45歳の頃からは還元生活に入りたいと願います。

そういう意味で、45歳の通過儀礼は欲との戦い、でしょうか。 準備? 好きなことをやってたくさん吸収しておく、です。

 


>③ 小欲と大欲

(梅本龍夫)
 ストーリーボード公開版、とにかくやってみようということで、ここまで続けていますが、問答の内容が「けっこう深くなってきたなぁ~」という感じがしますよ(^^)

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pyankoんは、「40代になると、だんだんと体力も衰えを感じ、『死』という人生の終点に向けての意識というものが、生活の中に出てくるようになりました」と語っていますね。

 
私たちの人生は、四季に喩えられます。春に芽吹き、夏に開花し、秋に結実し、冬は土中に眠る一粒の種子となる。春から夏にかけての上昇ステージである前半生が、ある日ピークアウトします。すると、あらゆることが逆回転を始め、下降ステージである後半生が始まるのです。
 
でも、下降する後半生は、そんないわるいものではありません。上昇一本やりや、若い時期を維持するだけでは、決して「秋の実り」は得られないのです。独りよがりでは到達できない場所が秋であり、そこで初めて手に入れられる宝物があります。それが「何なのか」。
 
その内容によって、人生で扱いの一番むつかしいの「冬」=「死」の迎え方も変わっていくように感じます。pyankoさんが意識するようになった「死」は、どんなイメージのもの、どんな意味を持ったものなんでしょうか?No.2―「探究」で、「不老不死」「永遠の命」が話題になりましたが、それとの関係なんかも含めて。

*******
secoさんは、「今は自己の欲ばかりなので、45歳の頃からは還元生活に入りたいと願います。そういう意味で、45歳の通過儀礼は欲との戦い、でしょうか」と語ってくれました。このコメントも、ずばり本質を突いているなと感じました。
 
「春」から「夏」にかけての上昇ステージでは、個の「欲」が自然に開花していきます。でも、その「欲」をどこかで手放さないと、本当に充実した「秋の実り」は手に入りません。そういう意味で、secoさんが言う「全力で社会や周囲のために生きられるようになる還元生活」とは、「秋の実り」を生きるひとつの姿かもしれません。
 
そこでsecoさんに質問ですが、「欲との戦い」をどんなものと見ていますか?個人の欲を仮に「小欲」と名付けるとしたら、欲との戦いの通過儀礼を経たあとの還元生活は、「大欲」とも呼ぶべきものを追求することになるのかなと思いますが、そんな予感はありますか?
 
ちなみに、二宮尊徳が 「凡人は小欲なり。聖人は大欲なり」 という言葉を残しています。聖人なんてとてもじゃないが無理。と思うかもしれませんが、「聖と俗」というテーマからいうと、凡人(俗人)と聖人には、普通にイメージするほどの落差はないのかも。

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さてと―。おふたりにばかり語らせて、自分自身の「45歳の通過儀礼」はどうだったのか?と問われそうなので、先に少しだけ触れておくと―。
 
私の前半生は、仕事づけの人生で、「小欲」の塊でした。出世したいというのは、それほど強くなかったですが、プロとしていい仕事を成し遂げたい、その成果に対する正当な評価を得たい、そして対価としての報酬をしっかり獲得したいという思いがとても強かったと思います。
 
たぶん、いろいろな意味で、無理を重ねていたのでしょう、40代中盤になると、仕事は客観的には順調で相当のことを達成できたのですが、とても空しい感じにとらわれるようになりました。そしてその感覚から逃れるために、今にして思うと随分と自暴自棄な生活に。
 
それが数年続いたあと、これじゃだめだと気付きました。


       
 夏の開花                          秋の結実          (ASHINARI)


>④

(pyanko)
「死」といっても、以前と比べると、身近になってきたなぁという感じです。

 
親の死や自分と近い年齢の人の死など、そういう体験によって、自分が、今日、明日にでも、死んしまうことだってある年齢なんだなぁ、というのは、意識するようになりました。
 
(本当は、若くても、突然に死ぬことは、もちろんあるのですが、意識としては、やっぱり薄かったように思います。)
 
自分自身にとっての「死」自体の具体的なイメージは、まだ、ぜんぜん持てていないのですが、自分が死んだ後に、他の人に迷惑をなるべくかけないようにしようという意識が出てきたように思います。
 
永遠の命と言っても、本当の意味での「永遠」というのはありえないと思っているので、スケールの違いはあったとしても、生きている限りは、なんらかの形で死というものを迎えることになるんだと感じていますが、じゃあ、「死」が、本質的に、どういうものであるかというのは、まだ、考えている最中というところです。
 
梅本さんの自暴自棄な生活・・・想像がつかないです(^_^;)


>⑤

(seco)
そこでsecoさんに質問ですが、「欲との戦い」をどんなものと見ていますか?個人 の欲を仮に「小欲」と名付けるとしたら、欲との戦いの通過儀礼を経たあとの還元 生活は、「大欲」とも呼ぶべきものを追求することになるのかなと思いますが、そん な予感はありますか?

全くありません。今は何も考えていないです。
好きなことをやりきれば、欲も手放せるような気がしています。
 

>⑥ 「練習試合」

フィードバックありがとうございました。pyankoさんの丸い返球と、secoさんの鋭い返球、どっちもしかと受け止めました(^^)
 
「死」と「大欲」は、ひとつながりのものです。「生」に執着するうちは、「小欲」が優先し、「死」と向き合ううちに、自然に「大欲」が湧いてくる。こんな関係だと思います。pyankoさんは「死」について「考え中」ということでしたが、そもそも現代人は「死」を避けており、考えないようにしていますから、考えているだけ随分と進歩的(?)です。

なぜ考えないかというと、私たちは「死」を「永遠の終わり」ととらえているからです。「永遠の生」はないけど、「永遠の死」はある。それは完全な消滅。でも、人間の脳は、「何もない」という状態を想像できません。そこで、思考停止してしまうのです。
 
この思考停止、わるいことばかりではありません。なぜかというと、思考と思考の隙間(すきま)に、「死」の実相が隠されているからです。「何もない」のは、実は思考が止まっている静かな意識状態をさします。そこには「永遠の終わり」ではなく、「永遠」そのものが隠されている、という人もいます。本当はどうなんでしょうか??
 
そんなことはとうていわからないですよね。ただ、わからなくても、それを感じる瞬間はあります。日常生活という「俗」を生きているのに、ふと「聖なるもの」に触れたと感じる瞬間が。それは、「はっ!」としたり「わくっ!」とする体験だったりします。肩の力が抜けて、つらいことが続く日常も、実は大丈夫かも、と思い直す「リセット感を体験する瞬間」
 
人は、この「俗」の合間に「聖」を実感するために、祭や儀式をやったり、聖なる場所を設けて定期的に訪問したりします。。pyankoさん、secoさん、そんな場所を確保していますか?

そして「通過儀礼」は、実は人生の節目ごとに儲けられた「聖なる関所」みたいなものだと思うのです。大変なだけの体験ではないんですね。pyankoさん、secoさんに、聖なる場所があれば、そこは「通過儀礼」の練習や準備の場にもなります。

「通過儀礼」を練習する場  (ASHINARI)


>⑦

(pyanko)
「聖なる場所」ですか!いくつか思い浮かんだ場所があります。

 
ひとつは、善通寺の「戒壇めぐり」です。

善通寺は、香川県善通寺市にある寺院で、私の大好きな弘法大師空海の生誕の地として有名です。「戒壇めぐり」は、御影堂の地下、まっ暗の中を歩いて行きます。これが本当にまっ暗で、1ミリ先も見えません。
 
そこを歩いて行くと、いろいろなことが浮かんだり、消えたりして、歩き終わると不思議な気分になります。実家に帰ったときには、必ず行く場所です。
 
もうひとつは、伊勢神宮の内宮です。
 
ここも行くと、なんとも言葉であらわしようがないのですが、「聖なる場所」というのを感じられます。特に夕方、人の少なくなった時間帯は最高です。ここもチャンスがあれば行きたい場所です。以前は、一年に一回は行っていたのですが、最近、行けてないなぁ。
 
もうひとつ、愛知県に私にとって、不思議な神社がありまして、そこに行くと「流れが良い方に変わる」という経験を何度かしました。そこも、しばらく行ってないですね。また、行ってみたいです。
 
そういえば今住んでいる関東のほうで「聖なる場所」を見つけていないのが悩みです。
 

>⑧

(seco)
石川県の白山比咩神社沖縄県の波上宮は好きな場所&お世話になった場所です。
聖なる場所とは逸れますが、地元の宮崎県のいろいろな場所は、ある意味心が安らぐ自分にとって聖なる場所です。



>⑨ 「高野山の時間」

(梅本龍夫)
pyankoさんとsecoさんは、それぞれにりっぱな「聖なる場所」を持っていてびっくりしました。善通寺の「戒壇巡り」は、真っ暗闇の中に入り、光ある方をめざす、という意味で、まさに「通過儀礼」の体験に通じます。

 
知人のアメリカ人男性が昔、人生の難事にぶつかり深く悩んでいたとき、京都の三十三間堂を訪れました。堂内に入ると、1000体の千手観音立像に圧倒され、「自分は孤独ではない、見守られている」という確信を得たそうです。「戒壇巡り」を知り、思い出した話です。
 
「通過儀礼」は、人生の難事に遭遇する形で体験する場合が多いですが、同時に、人生の難事が癒され、深い気づきを得るプロセスでもあります。思い通りにならない「俗世界」のもろもろの出来事に傷ついた心は、「聖なる場所」で純粋なものに触れ、再生します。
 
pyankoさんの善通寺、伊勢神宮、愛知県の神社と、secoさんにとっての白山比咩神社と波上宮は、まさにそういう「聖なる場所」なんでしょうね。そういう場所を持てて羨ましいです。というのは、この質問をして、自分にとっての「聖なる場所って?」と自問して、即答できなかったからです―。
 
自分の「45歳の通過儀礼」の体験にちょっと触れたら、pyankoんに「梅本さんの自暴自棄な生活・・・想像がつかないです」と言われましたが(苦笑)、あれも今思い返せば「聖なる場所」を確保していれば、もっと楽に通過できた気がします・・・。
 
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で、体験談の続きをもっと後でするとして―。

「45歳の通過儀礼」を成就する過程で、空海と出会いました。遅ればせながら空海ファンになり、高野山にも憧れるようになりました。1年ほど前に初めて宿坊に泊まり、聖地の雰囲気を満喫できました。
 
今も弘法大師空海が存在すると言われる奥の院。その前でたたずんでいた時間は、不思議なものでした。1200年の時を隔てて、空海が眼前にいる空気を感じました。高野山は遠いですが、おふたりとの問答をしていたら、定期的に訪れたくなりました。
 
「俗」は時間のある世界ですが、「聖」は永遠です。「俗の時間」は過去に執着し、未来に不安を感じますが、「聖なる瞬間」は今ここです。空海が高野山を真言密教の聖地として開いたのが812年。2012年はそのちょうど1200年後だったわけですが、奥の院のたたずまいは、そんな時間観念を超越して「今この瞬間」を永遠に輝かせている雰囲気がありました。
 
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社会学者の加藤秀俊先生は、名著『メディアの発生―聖と俗をむすぶもの』の中で、「日本人は宗教心はあまりないかもしれないが、信仰心は並はずれている」と語っています。

初詣をする日本人の数は、一説では累計で1億人近いそうです。つまり、ほぼ全国民がどこかの神社仏閣に参拝している計算になります。
 
pyankoさんとsecoさんは、日本人にとっての「聖なる場所」って、外国の人とちょっと違うかも、という感じはしますか?「宗教心はないが信仰心はある」という加藤先生の指摘はどうですか?


高野山奥の院 (写真:佐藤弘弥氏)


>⑩

(pyanko)
「聖なる場所」は、それぞれの文化、特に宗教的な文化の影響を受けると思いますので、
そういった意味でも、それぞれの国で違っているのではないかと思います。
 
ただ、他の文化の人の内面を理解することは、難しいですし、あまり外国との接点もありませんので、あくまでもイメージです。
 
根底には、「聖」という同じ何かが流れているのかもしれませんが・・・
 
「宗教」と「信仰」の定義は、きちんとはわかりませんが、自分は、どこの宗教にも属していないという日本人は多いと思いますが、それでも、初詣、お盆のお墓参り、葬儀の作法、神頼みなど、宗教の型を借りて、信仰を表しているように思います。
 
また、宗教というものを意識しなくても、それらのことが自然にできてしまうところが、「信仰心はある」に繋がっているのではないでしょうか。
 

>⑪ 

seco)
そうだったんですか~昨年で1200年!初耳でした。高野山には行ったことがありますが、奥の院は行かなかった!お恥ずかしい・・・。空海のことを知れば、もう少し滞在が充実したものになるのでしょうね。

「宗教心はないが信仰心はある」というのは違う気もします。日本人の神社仏閣への参拝は、お祭り騒ぎのようなイベント事に感じるので、信仰心とは違う気がします。信仰心より、御利益とか罰が当たる、先祖を敬う、みたいな単純な考えなのでは?

因みに、私はキリスト教で育ってきたので教会へ行くことは日常でした。でも、教会へ行くことが大事なのではなく、神様との対話はいつでもできるという教えだったので、行かないことも多々あります(失笑)

教会は聖なる場所でもありますが、聖なる場所は今この場であるとも言えます。



>⑫ 「御利益」

(梅本龍夫)
pyankoんは、「根底には、『聖』という同じ何かが流れているのかもしれませんが・・・」と、ちょっと躊躇(?)するように書いていますが、これ、ポイントです。「俗」は多様ですが、「聖」はひとつです。ただ、文化的バイアスがかかるので、国や宗教が変われば、教えの内容やシンボルなどの雰囲気も変わってくるんですが、本質はまったく一緒です。
 
どの人の人生もかけがえのないもの、つまりその人固有の成り立ちと価値を持ちます。同時に、人類共通のテーマと交差しています。それを正面から体験するのが「通過儀礼」です。なので、この大変な時期は特に「聖なる場所」が役立つわけです。ばらばらになってしまったものが、「ひとつ」(One)に戻るんですね。
 
secoさんは、「日本人の神社仏閣への参拝は、お祭り騒ぎのようなイベント事に感じるので信仰心とは違う気がします。信仰心より、御利益とか罰が当たる、先祖を敬う、みたいな単純な考えなのでは?」と書いていますが、ここにもキーワードがあります。「御利益」です。そう、「聖なる場所」は、「御利益」を得る場所ですよね。
 
「御利益=神仏が人間に与えるお恵み、幸運」と辞書にあります。これはつまり、ストーリーボードNo.4―「手助け」のことです。「御利益=手助け」をちゃんと受け取れば、「通過儀礼」はこわくありません。それどころか、わくわくする楽しい体験になる可能性があります。
 
神社で受験という「通過儀礼」を無事に成し遂げるために、絵馬を奉納したりするのは、「現世利益」と言われたりします。この世で得することを神や仏に祈願することで、ちょっと純度が低いとみなされたりします。これ、気にする必要ありません。「聖」と「俗」は相互乗り入れしてますから。
 
さて、次のストーリーボードに移るタイミングです。「ひとつ」(One)に戻り、「御利益」を得るために、なくてはならないものがあります。それが「夢」です。「通過儀礼」をがんばるのは、「夢」を実現するため。「夢」がないと、「通過儀礼」は、ただつらいだけのわけのわからない体験となってしまいます。
 
じゃ、「夢」って何でしょう?ヒントは、secoさんの言葉にあります。「神様との対話」と「聖なる場所は今この場」です。secoさん、話を単刀直入にしてくれてありがとう(^^)
 


猫の夢          (ASHINARI)




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