【対談形式ストーリーボード】
>①
(seco)
ん~
アーサー王の騎士たちは、聖杯を探しに行くという壮大な物語、だけどザマン王子は結婚ですよ?器の大きさも話の大きさもそれぞれレベルがある気がします。そういう意味では、誰でも英雄かもしれません。
周囲の人々や超越的存在の「手助け」とやら、わかる気がします。何でも「自分にとって良い」と思えば、手助けは多く存在するものです。
>②
(pyanko)
『そのカギを握る』というのは、旅に出るためのカギを握る、それとも英雄になるためのカギを握る、いや、その両方のカギを握るという意味でしょうか。
>③
(梅本龍夫)
pyankoさん、「そのカギを握る」は、ちょっとわかりにくい表現でしたね。「超越的な存在」や周囲の人々などの「手助け」は、実は「呼びかけ」の時から始まっていると思います。
さらに、「呼びかけ」がいやだなと「拒否する」ときも、「旅立ち」を決意するときも。そして、旅がどんどん進み、英雄っぽくなっていくプロセス全体に、「手助け」は常に存在しています。
ただ、その担い手や、表現の仕方、そして具体的な「手助け」の内容は、どんどん変化し続けます。なので、何が「手助け」なのかは、「物語」の進行の中で、具体的に見ていく必要があります。
そして、secoさんの指摘ですが、確かにアーサー王の騎士たちが聖杯を探しに行く冒険と、結婚騒動では、英雄といっても随分とレベルの違いがあるなと思います。率直に言って、ザマン王子って英雄なの?という思いは、私も同感です(苦笑)。
ザマン王子の結婚がどうなるか、pyankoさんは、それこそ「千夜一夜」の思いで待っている(?)のに、そこに入れなくてすみません。その前に、結婚について、神話学者のジョーセフ・キャンベルが語っていることがすごくいいなと思うので、シェアさせてください。
「私をはじめ、長く結婚している人たちが気付くことは、結婚は恋愛ではないということです。恋愛は個人的な満足にすぎません。しかし結婚は試練です。繰り返し歩み寄ることです。だからこそ神聖なのです。二人の関係に参入するために、一人の単純明快さを手放すのです。自分を相手に与えるのではなく、二人の関係に与えるのです。これが結婚の挑戦です。」
これは『ジョーゼフ・キャンベルが言うには、愛ある結婚は冒険である。』という長いタイトル本からの引用です(178頁)。
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結婚することは、今日の社会では、昔よりもハードルの高いものになっていますが、それでも聖 杯を見つけるよりは、簡単で現実的ですね。そして日常的で、普通。英雄の要素ゼロ。私もそう思っていました。しかし、キャンベルさんの本を読んで、考えが変わりました。
>⑤
(梅本龍夫)
pyankoさん、「シュレーディンガーの猫」、簡単に説明してくれますか。どこが神話と似ているかも含めて。
>⑥
(pyanko)
シュレーディンガーの猫の話は、すごーくはしょっちゃいますが、1時間の間に毒物が出る確率が50%の箱の中に入れられた猫が1時間後に箱を開けた時に生きているか死んでいるかがわかるのですが、その一時間の間は、猫は生きている状態と死んでいる状態が重なった状態になってしまうという量子力学のパラドックスを説明する時に使われた話です。
>⑨
>⑩
(梅本龍夫)
pyankoさん、なにしろ「千夜一夜物語」なので、続きは翌日となるのが慣例で(笑)。
でもお待たせしました。キャンベル先生が教えてくれるザマン王子の冒険の旅、後半を一気に解説します。
ザマン王子が幽閉された塔の中には、妖精マイムーナが住んでいました。彼女は、塔の中で眠るザマン王子を発見。その寝顔が、あまりの美貌であったため、呆然自失となりました。そしてマイムーナは、ザマン王子が誰からも危害を加えられないように気を配りました。
それから空に飛翔したマイムーナは、はるか中国から飛んできた男の妖精ダハナシュに遭遇。マイムーナは、「こんなところで何をしているか」と詰問しました。恐れをなしたダハナシュは、「中国で世にも類まれな美貌をもつガユール王の娘を見た」と告白しました。
マイムーナにとって、ザマン王子よりも美貌の人間がいるなどありえないことです。そこでダハナシュが中国からブドゥール王女を連れてきて、ザマン王子と並んで寝かせ、二人の美貌を見比べることにしました。
ザマン王子とブドゥール女王は双子のようでした。二人の妖精は、互いが愛する方が美しいと主張しましたが、実際には五分と五分でした。そこで、ザマンとブドゥールを、もう一方に気づかれないように代わる代わる目覚めさせ、どちらが相手により恋心を燃やすかで、どちらの美貌がより際立つかを決めることにしました。
ザマン王子とブドゥール王女は、互いを見てたちまち激しい恋心を燃え上がらせましたが、ザマンは自分が塔の中で誰からに見られている可能性を意識したのに対し、ブドゥール王女は何はばかることなく自分の思いを表現しました。結果、妖精ダハナシュの負けとなりました。そしてダハナシュは、ブドゥール王女をはるか中国に戻しました。
翌朝、大陸の端と端で目を覚ました王子と王女は、互いが添い寝をした美貌の異性がもういないことに気づき、気が狂うほど騒ぎ立てました。ふたりは、出会いの時に、お互いの指環をそれぞれ抜き取り、自分の指にはめていたので、昨夜のことは夢ではないと確信していたのです。中でもブドゥールはおつきを殺めてしまうほどの狂乱状態となりました。
そこで、ブドゥール王女の狂気をなんとか治したい乳母が、長途の旅に出ました。そして、はるかペルシアでついにザマン王子を探し当て、中国に連れ戻し、ふたりは結婚しました。それは幸福な結婚でしたが、望郷の念を押えがたいザマン王子は、妻ブドゥールを伴って西の国に旅立ちました。旅の途中でふたりは離れ離れになってしまい、数奇な遍歴の末に再びめぐり合い、幸福を取り戻しました。
その後、ザマンとブドゥールの息子たちが冒険の旅に出る物語が続き、最後に主要登場人物が一同に会する大団円となり、この長大な物語は完了します。
(参照と引用、ジョーセフ・キャンベル著『千の顔をもつ英雄』)。
>⑪
>⑬
(梅本龍夫)
pyankoさん、「妖精」という表現をしましたが、ザマン王子の物語に出てくる「手助け」は、「魔王ドムリアットの娘の女鬼神マイムーナ」と、「鬼神シャムフラシュの息子ダハナシュ」と表現されていますので、むしろ冥界の使者のような存在なんでしょうね。
人間ではない存在ということで、「妖精」と一般化しました(魔王や鬼神では、妖精らしくないですが…)。
こうした超人的な能力を有する存在は、人間にとって「メディア」(霊的な媒体)になるのだと思います。現実の世界では肉体的にも精神的にも制約の多い人間が、飛躍を遂げ、大きく成長できるのは、こうした「メディア」が手助けしてくれるからです。
現実の生活において、人間ではない「メディア」に出会えるかどうか。ペットなどが密かにそういう存在になる可能性はあります。さらに、人間の顔をした「メディア」もたくさんいるのかもしれない。そんな気もします(ちなみに神話では、半神半人の登場人物はわりと一般的です)。
secoさん、私もザマン王子の物語を「英雄の冒険の旅」というにはちょっと抵抗があります。むしろ、「結婚を拒絶する」というわがままをしたことで、運命が大きく展開する物語ととらえた方がわかりやすいです。つまり敷かれたレールに無自覚に乗らないことで、冒険が始まるという物語です。「冒険の旅」には違いないが「英雄」とは言えない感じ。
では、この冒険の旅で「ただの人」が「英雄」に変容していくために必要なものは何か?secoさんは「試練や努力や運」と書いてくれました。それを次のストーリーボードで見ていきたいと思います。
***
ここで、まとめ。
「手助け」とは「物語の登場人物」すべてを指します。「登場人物」を決める(選択する)のは「主人公」です。つまり「私」です。繰り返しますが、「私」が自分の物語を構成する「登場人物」(あるいは人間でない存在)を決めています。
「私」を前に進めてくれたり、楽にしてくれたり、しあわせにする存在ばかりでは、物語は盛り上がりません。「私」にとって厄介だったり、マイナスをもたらす存在も、大切な「登場人物」です。「手助け」は、思わぬところに隠れている。それが「物語法」のポイントです。