2013.07.09 tue

「物語」でビジネスも人生もうまくいく? No.4―「手助け」

「物語」でビジネスも人生もうまくいく? No.4―「手助け」


【対談形式ストーリーボード】


「物語」でビジネスも人生もうまくいく?
No.4―「手助け」


(梅本龍夫)
ストーリーボードNo.3「旅立ち」で、「旅」のたいへんさを自覚できる感度が、英雄の器を作っていく、と指摘しました。それに対して、secoさんは、言いました。
 
「頑張れば英雄になれるのでしょう・・おそらく。結果的に英雄になる、というのはわかります。

でも、英雄のようにたくさんの試練を乗り越え、多くの人に助けをいただき・・・(意地悪だろうがなんだろうが)そんな大変なことからは逃げたいので、英雄は他の誰かで良いと思っています。

『旅』の大変さを自覚できるからこそ、英雄にはならなくていいと思える。『旅』の大変さを自覚できない純粋無垢な人が、英雄への道を歩める気がします。だから、誰でも英雄というのは違うはず。」
 
実際、ストーリーボードNo.3「旅立ち」の一番最後に出てきたアーサー王の騎士たちは、secoさんが指摘する「『旅』の大変さを自覚できない純粋無垢な人」に見えます。
 
彼らは「内なる声」(呼びかけ)に応え、消えた聖杯を探し出すべく旅立っていきました。そういう意味では、英雄物語の文脈に沿っています。しかし、この冒険の旅が危険だとか、大変そうだと躊躇したり、辞退しようとした様子はありません。一般常識(?)から見て、いかにも英雄っぽい。そして、普通の人には縁遠い存在と思わせる。
 
これに対して、「アラビアン・ナイト」に出てくるペルシア王シャリーマンの一人息子で若き美貌の皇太子ザマンは、父親である王が薦める結婚を、「結婚なんかしたくない」という理由だけで断るのですから、およそ英雄風のところはありません。しかし、ザマン王子の方も、騎士たちに負けず劣らず、波乱万丈の旅をすることになります。

そのカギを握るのが、周囲に人々や、超越的存在の「手助け」です。

>①

(seco)
ん~
アーサー王の騎士たちは、聖杯を探しに行くという壮大な物語、だけどザマン王子は結婚ですよ?器の大きさも話の大きさもそれぞれレベルがある気がします。そういう意味では、誰でも英雄かもしれません。

周囲の人々や超越的存在の「手助け」とやら、わかる気がします。何でも「自分にとって良い」と思えば、手助けは多く存在するものです。


>②

(pyanko)
『そのカギを握る』というのは、旅に出るためのカギを握る、それとも英雄になるためのカギを握る、いや、その両方のカギを握るという意味でしょうか。
 


>③

(梅本龍夫)
pyankoさん、「そのカギを握る」は、ちょっとわかりにくい表現でしたね。「超越的な存在」や周囲の人々などの「手助け」は、実は「呼びかけ」の時から始まっていると思います。

さらに、「呼びかけ」がいやだなと「拒否する」ときも、「旅立ち」を決意するときも。そして、旅がどんどん進み、英雄っぽくなっていくプロセス全体に、「手助け」は常に存在しています。

ただ、その担い手や、表現の仕方、そして具体的な「手助け」の内容は、どんどん変化し続けます。なので、何が「手助け」なのかは、「物語」の進行の中で、具体的に見ていく必要があります。

そして、secoさんの指摘ですが、確かにアーサー王の騎士たちが聖杯を探しに行く冒険と、結婚騒動では、英雄といっても随分とレベルの違いがあるなと思います。率直に言って、ザマン王子って英雄なの?という思いは、私も同感です(苦笑)。

ザマン王子の結婚がどうなるか、pyankoさんは、それこそ「千夜一夜」の思いで待っている(?)のに、そこに入れなくてすみません。その前に、結婚について、神話学者のジョーセフ・キャンベルが語っていることがすごくいいなと思うので、シェアさせてください。
 

「私をはじめ、長く結婚している人たちが気付くことは、結婚は恋愛ではないということです。恋愛は個人的な満足にすぎません。しかし結婚は試練です。繰り返し歩み寄ることです。だからこそ神聖なのです。二人の関係に参入するために、一人の単純明快さを手放すのです。自分を相手に与えるのではなく、二人の関係に与えるのです。これが結婚の挑戦です。」
 

これは『ジョーゼフ・キャンベルが言うには、愛ある結婚は冒険である。』という長いタイトル本からの引用です(178頁)。


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結婚することは、今日の社会では、昔よりもハードルの高いものになっていますが、それでも聖 杯を見つけるよりは、簡単で現実的ですね。そして日常的で、普通。英雄の要素ゼロ。私もそう思っていました。しかし、キャンベルさんの本を読んで、考えが変わりました。
 


>④

(pyanko)
この結婚についての言葉は名言ですね。
 
「手助け」に関してですが・・・
英雄の立場からして、何が「手助け」だったかは、後からわかるとしたら、量子力学の「シュレーディンガーの猫」のパラドックスのように感じました。ふと、『神話』は『量子論』に似ているかもって思いました(^^)


>⑤

(梅本龍夫)
pyankoさん、「シュレーディンガーの猫」、簡単に説明してくれますか。どこが神話と似ているかも含めて。
 


>⑥

(pyanko)
シュレーディンガーの猫の話は、すごーくはしょっちゃいますが、1時間の間に毒物が出る確率が50%の箱の中に入れられた猫が1時間後に箱を開けた時に生きているか死んでいるかがわかるのですが、その一時間の間は、猫は生きている状態と死んでいる状態が重なった状態になってしまうという量子力学のパラドックスを説明する時に使われた話です。

 
それで、勇者は、いろいろな助けを経て、最終的に勇者になると思うのですが、その過程では、勇者の状態と勇者じゃない状態が重なった状態なのではないかと。
 
だから過程の部分だけを見れば、誰でもが、勇者になる可能性のある勇者の状態と勇者じゃない状態が重なった状態なんじゃないかなって思ったわけです。
 
そして、その状態を説明しているのが、神話なんじゃないかと。すみません(>_<) 勝手な解釈なのですが・・


>⑦

(seco)
「手助け」ですが、自分が旅立つ、もしくは旅立ったと実感し、それには困難が伴うことを自覚しないと、「手助け」は手助けとは感じられず、壁にも邪魔者にも感じられるんでしょうね。やっぱり、出立している認識が大事だと思います。

もし、自覚しないまま時間が経っているなら、「手助け」は後でそう思う、そうだったのか~ということになりますよね?


結婚もキャンベルに言わせれば、冒険なんですね~ 
繰り返し歩み寄るなんてすごい大変!(><) 
普通はいつかあきらめるんじゃないかなぁ



>⑧

(梅本龍夫)
pyankoさん、「シュレーディンガーの猫」の説明をありがとうございました。
 
「ふわっと」ですが(笑)理解できました。量子力学は超ミクロの世界で起きている不思議なことを解明していて、それが私たち人間が認知できるマクロの世界の「常識」とは一致しないのが問題ですね。量子が「粒子」の側面と「波動」の要素を同時に持つという前提が、話を難しくしているのでしょうか。
 
これを神話の世界に当てはめると、シンボリックには似た側面があると思います。神話は、私たちが普通に生きている世界と、神様のような超越的な存在が生きている世界が交錯する物語です。「相対」の世界と「絶対」の世界ともいえます。この2つの世界のどちらから見ているかで、神話の描写は全然違ってきます。
 
「相対」にいる人間には見えていないことが、「絶対」では確かに存在していたりします。なので、pyankoさんがいうように、「過程の部分だけを見れば、誰でもが、勇者になる可能性がある。勇者の状態と勇者じゃない状態が重なった状態」というのは、あると思います。神話は、「相対」から「絶対」への旅ともいえます。「絶対」に到達したら全員が英雄。しかし旅の途上では、基本は「相対」しか見えず、時々「絶対」の英雄の顔が、ちらっと見える感じ。
 

「出立している認識が大事」というsecoさんの指摘も、なるほどと納得でした。この自覚、「神様のような絶対的な存在」の呼びかけに応えている状態です。ただしそれは無意識レベルなので、実感としては、自分ひとりで進んでいる、孤軍奮闘している感じですが。
 

で、「結婚は冒険」に話は進まないと。「アラビアン・ナイト」のザマン王子でしたね。
 
父親のシャリーマン王は、家臣のアドバイスに従い、宰相、貴顕大公、長官などが一同にそろう公の場で、ザマン王子に婚姻の儀を説得することにしました。そうすれば、気兼ねと気恥ずかしさから、父王の意向に逆らえないだろうという見立てでした。
 
ところがザマン王子、何を思ったか、またも結婚を断っただけでなく、取り乱して父王をさんざんこきおろしてしまいました。祝典当日の晴れの場の醜態に、父王は困惑し、すぐに王者の威厳で息子を一喝しました。そして、ザマン王子を城内の塔の中に幽閉してしまいました。
 
王子は悲嘆にくれ、われとわが身を責めたり、父王に対してどうしてあんな不遜な態度を取ったのかと後悔しました。
 
話し変わって、はるか遠くにある中国の王国に君臨するガユール王の娘に、実に似た状況が生まれていました。

美貌の王女ブドゥール、はかたくなに父王の進める結婚を拒否。縁談を無理強いされるのであれば、刀で胸を突きわれとわが命を終わらせるとまで言い出す始末。目の前がまっくらになった父王は、ブドゥール王女を離れ屋の一室に監禁しました。

ここでキャンベル先生が言いました。

「ヒーローとヒロインがともに頑なな拒否の態度をつらぬき、二人のあいだにはアジア大陸が介在しているので、この永遠に運命づけられた組み合わせの結合を成就するには奇蹟にたよらぬかぎり無理である」
(『千の顔をもつ英雄』上巻88頁)

その奇蹟をこれからザマン王子とブドゥール王女にもたらすのが、「手助け」をしてくれる妖精のような存在たちと、あいなるわけです―


>⑨

(pyanko)
 
え~、そこまでですかぁ~(>_<)
中国って、また、話が、えらく広がってきましたね。
先が気になります!!


>⑩

(梅本龍夫)
pyankoさん、なにしろ「千夜一夜物語」なので、続きは翌日となるのが慣例で(笑)。

でもお待たせしました。キャンベル先生が教えてくれるザマン王子の冒険の旅、後半を一気に解説します。
 

ザマン王子が幽閉された塔の中には、妖精マイムーナが住んでいました。彼女は、塔の中で眠るザマン王子を発見。その寝顔が、あまりの美貌であったため、呆然自失となりました。そしてマイムーナは、ザマン王子が誰からも危害を加えられないように気を配りました。

それから空に飛翔したマイムーナは、はるか中国から飛んできた男の妖精ダハナシュに遭遇。マイムーナは、「こんなところで何をしているか」と詰問しました。恐れをなしたダハナシュは、「中国で世にも類まれな美貌をもつガユール王の娘を見た」と告白しました。

マイムーナにとって、ザマン王子よりも美貌の人間がいるなどありえないことです。そこでダハナシュが中国からブドゥール王女を連れてきて、ザマン王子と並んで寝かせ、二人の美貌を見比べることにしました。

ザマン王子とブドゥール女王は双子のようでした。二人の妖精は、互いが愛する方が美しいと主張しましたが、実際には五分と五分でした。そこで、ザマンとブドゥールを、もう一方に気づかれないように代わる代わる目覚めさせ、どちらが相手により恋心を燃やすかで、どちらの美貌がより際立つかを決めることにしました。

ザマン王子とブドゥール王女は、互いを見てたちまち激しい恋心を燃え上がらせましたが、ザマンは自分が塔の中で誰からに見られている可能性を意識したのに対し、ブドゥール王女は何はばかることなく自分の思いを表現しました。結果、妖精ダハナシュの負けとなりました。そしてダハナシュは、ブドゥール王女をはるか中国に戻しました。

翌朝、大陸の端と端で目を覚ました王子と王女は、互いが添い寝をした美貌の異性がもういないことに気づき、気が狂うほど騒ぎ立てました。ふたりは、出会いの時に、お互いの指環をそれぞれ抜き取り、自分の指にはめていたので、昨夜のことは夢ではないと確信していたのです。中でもブドゥールはおつきを殺めてしまうほどの狂乱状態となりました。

そこで、ブドゥール王女の狂気をなんとか治したい乳母が、長途の旅に出ました。そして、はるかペルシアでついにザマン王子を探し当て、中国に連れ戻し、ふたりは結婚しました。それは幸福な結婚でしたが、望郷の念を押えがたいザマン王子は、妻ブドゥールを伴って西の国に旅立ちました。旅の途中でふたりは離れ離れになってしまい、数奇な遍歴の末に再びめぐり合い、幸福を取り戻しました。

その後、ザマンとブドゥールの息子たちが冒険の旅に出る物語が続き、最後に主要登場人物が一同に会する大団円となり、この長大な物語は完了します。

(参照と引用、ジョーセフ・キャンベル著『千の顔をもつ英雄』)。


如何ですか?ザマン王子、はたして英雄といえるのでしょうか。ブドゥール王女の方が主人公っぽいでしょうか?

ひとついえるのは、ふたりの大冒険は、結婚の幸福という素朴なテーマをめぐるものだということ。

そして、結婚が成就するために、大陸の端と端を往来する妖精や、乳母などさまざまな存在が、実に大きな「手助け」をすることです。

これは、現実の結婚においても、実は同じなんじゃないか。ザマン王子のように、いつの間にか大きな流れに翻弄されながら、結婚という大冒険をしているのが人生かもしれない。英雄らしくないザマン王子を見ると、とりわけその感を強くします。



>⑪

(pyanko)
 
無事、ふたりは結婚しましたね!でも、なかなか波瀾万丈な物語そうです。そして、ブドゥール王女のほうが主人公というか英雄っぽいと感じます。
 
それにしても、おつきを殺めてしまうほどの奥さん、時代が違うとはいえ、ザマン王子は、そのあとの結婚生活、幸せになれたのかしら。尻にしかれてないかしら、と、ちょっと心配になりました(^_^;)
 
ここに出てくる「妖精」は何かの象徴でしょうか。大陸が離れていても、ふたりが結ばれたのが妖精の介在だとするとなかなか、現実感はわかないですよね。
 
物語としては、面白いと思いますが、それを現実とどう繋げて考えていけばいいのだろう
という疑問はわきます。ただ、「物語」として面白ければ、それはそれでいいと思いますが(^^)



>⑫

(seco)
物語としては面白いお話ですね~「手助け」の存在もわかります。

でも、このお話は英雄の話ではなく、似た者同士がいたものだ、という(結婚が嫌でも、タイミングよくするときはくる)みたいな話に聞こえて何か、冒険物語には思えない!!!

英雄の冒険はもっと試練や努力や運が登場してくる気がするな~


>⑬

(梅本龍夫)
pyankoさん、「妖精」という表現をしましたが、ザマン王子の物語に出てくる「手助け」は、「魔王ドムリアットの娘の女鬼神マイムーナ」と、「鬼神シャムフラシュの息子ダハナシュ」と表現されていますので、むしろ冥界の使者のような存在なんでしょうね。

人間ではない存在ということで、「妖精」と一般化しました(魔王や鬼神では、妖精らしくないですが…)。
 
こうした超人的な能力を有する存在は、人間にとって「メディア」(霊的な媒体)になるのだと思います。現実の世界では肉体的にも精神的にも制約の多い人間が、飛躍を遂げ、大きく成長できるのは、こうした「メディア」が手助けしてくれるからです。

現実の生活において、人間ではない「メディア」に出会えるかどうか。ペットなどが密かにそういう存在になる可能性はあります。さらに、人間の顔をした「メディア」もたくさんいるのかもしれない。そんな気もします(ちなみに神話では、半神半人の登場人物はわりと一般的です)。
 
secoさん、私もザマン王子の物語を「英雄の冒険の旅」というにはちょっと抵抗があります。むしろ、「結婚を拒絶する」というわがままをしたことで、運命が大きく展開する物語ととらえた方がわかりやすいです。つまり敷かれたレールに無自覚に乗らないことで、冒険が始まるという物語です。「冒険の旅」には違いないが「英雄」とは言えない感じ。
 
では、この冒険の旅で「ただの人」が「英雄」に変容していくために必要なものは何か?secoさんは「試練や努力や運」と書いてくれました。それを次のストーリーボードで見ていきたいと思います。

***
ここで、まとめ。

「手助け」とは「物語の登場人物」すべてを指します。「登場人物」を決める(選択する)のは「主人公」です。つまり「私」です。繰り返しますが、「私」が自分の物語を構成する「登場人物」(あるいは人間でない存在)を決めています。

「私」を前に進めてくれたり、楽にしてくれたり、しあわせにする存在ばかりでは、物語は盛り上がりません。「私」にとって厄介だったり、マイナスをもたらす存在も、大切な「登場人物」です。「手助け」は、思わぬところに隠れている。それが「物語法」のポイントです。

「手助け」は意外なところに・・・(写真:Ashinari)



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