2013.06.24 mon

「物語」でビジネスも人生もうまくいく? No.3―「旅立ち」

「物語」でビジネスも人生もうまくいく? No.3―「旅立ち」


【対談形式ストーリーボード】


「物語」でビジネスも人生もうまくいく?
No.3―「旅立ち」


(梅本龍夫)
secoさんが言いました。

「個人的に物語を現実の感覚に引き込めない自分がいます。人生は物語の連続なんでしょうが、物語ってけっこうきつい。」

「辛いとき、苦しいときが必ずあるわけで、その先にハッピーなことがあるとわかっても、落ちているときは辛くて回りが見えなくなることも多いです。エンディングがずっとずっと先の場合もあるし、主人公でいられないこともある。」

「永遠の命はいらないなぁ」

想像の世界の「物語」を読んだり、映画とかで観るのはいいけど、自分の人生を「物語」と見るのはつらい。だから、「宝」が手に入ると言われても、物語の主人公にはなりたくない。

この感覚こそ、「物語の始まり」なんです。

世界中の神話の構造を分析したジョーゼフ・キャンベルという神話学者は、とても面白いことを言っています。神話の主人公の英雄は、神から旅立ちなさい、という呼びかけを受けます。ところが、この英雄、神の呼び掛けを断ってしまうんです。

理由は、「なんかたいへんそうだから・・・」


>①
(seco)

でしょう???


旅立つものが英雄で、旅立たないのが一般人でしょうか?

 


>②

(pyanko)
 
ぶっ、ちょっと吹いてしまいました(>_<)
 
なんか英雄って、そういう時に、悩みながらも、強い志を持って旅立つイメージがあるのですが、「なんかたいへんそうだから・・・」、という理由で断ったのには、うけました!
 
なんか今風ですね。


>③

(梅本龍夫)

ふたりのリアクションは想定以上でした(苦笑)
英雄は人気者ですね。
 
いや、そうではなくて、英雄のことを、多くの人は誤解している部分があるのだと思います。
 
secoさんの質問、「旅立つものが英雄で、旅立たないのが一般人でしょうか?」の答は、ある意味では「YES」だと思います。でも、本当のところは、「旅立たない人はいない」というのが答えです―。
 
pyankoさんがいう「悩みながらも、強い志を持って旅立つ」英雄もいるにはいると思いますが、むしろ例外的なのだと思います。ほとんどの英雄は、実は自力では旅立っていません。少なくても神話では。
 
英雄のイメージ、変わりましたか?
 


>④

(seco)

つまり・・・
どうやって英雄は旅立つのですか?
旅立たない人はいない、のなら皆英雄で、それは英雄とは言わないのでは?


 



>⑤

(pyanko)
英雄のイメージが変わったと言うより、わからなくなりました(^_^;)
英雄は、やっぱり「ヒーロー」的なイメージがありますので。
それでは、英雄って、どういう人なんだろう・・・


 


>⑥

(梅本龍夫)
キャンベルは、英雄のことをこんな風に描写しています。
 

「英雄は日常世界から危険を冒してまでも、人為の遠くおよばぬ超自然的なところに赴く。その赴いた領域で超人的な力に遭遇し、決定的な勝利を収める。英雄はかれにしたがう者に恩恵を授ける力をえて、この不思議な冒険から帰還する」(『千の顔をもつ英雄』上巻45ページ)

             人文書院

この文章、ちょっと難しいですね。それに、短い中に、ものすごくいろいろなことが詰め込まれている感じです。でも、ものすごく単純化してしまうと、「英雄とは、普通の人ができない冒険を成し遂げて、みんなのために宝を持ち帰ってくる人」、ということになります。
 
「なんだ、やっぱり英雄は一般人とは全然違うんじゃない」。そうですね。確かに違います。ただ、英雄は最初から英雄だったわけではありません。冒険をして、困難を乗り越えて、結果として英雄になったんです。最初から英雄然としていたわけではありません。
 
英雄でもなんでもない人は、神から旅立ちなさいと呼びかけられ、「待ってました!」とならないのが普通です。「なんか大変そうだからやだな」の方がありそうなリアクションです。
 
そんな一見すると「普通の人」「一般人」が、結局は旅立つ理由は何か。

キャンベルは、「超自然的な存在が手助けをしてくれるから」と説明しています。神が旅立ちなさいと言ったあと、妖精とか女神とか、人間とは違う存在が助言をしたり、背中を押してくれたりするわけです。
 
ただし!
 
妖精とか女神と言いましたが、その姿は、「貧しい老人」や「老婆」や「意地悪な存在」だったりします。ここが大事だと思いませんか?

 



>⑦

(pyanko)

結果としての「英雄」というのは、なんとなくわかる気がします。確かに、現在進行形での「英雄」って、いないのかもしれません。
 
また、「超自然的な存在の手助け」も、なんとなくわかります。昔から、時々、そういったことを感じることがあって、それに従うと、なぜだか上手くいくのです。
 
それによって背中を押されたから、動けたんだと思います。もちろん、ただの思い込みかもしれませんが・・・それに、まだ、「英雄」には、なれそうもありません(^_^;)



>⑧

(梅本龍夫)
「超自然的な存在の手助け」が何となくわかるかどうか。これが「旅立ち」ができるかどうかの分かれ道になります。だから、pyankoさんは「英雄」の資質、ありますね。

英雄は、強いとか、勇敢だとか、大きな責任を背負える器の大きさがあるとか、志が高く無私の心で他者のために働けるとか―いろいろとりっぱなイメージがあるかもしれませんが、実際に英雄の旅を始める人は、そんな感じではなく、もっと普通です。

ただ、「旅立ち」のためには、通常よりも少し鋭い感性というか、感受性というか、ある種の感度が必要になります。感覚が鈍っていると、「超自然的な存在の手助け」を見過ごしたり、聞き逃したり、無視したりします。

でも、この感度というのが、なかなかクセモノです。

誰が見ても明らかな客観的証拠のようなものがあれば、良いのですが、キャンベルが例示するように、「超自然的な存在の手助け」が、「貧しい老人」や「老婆」や「意地悪な存在」だと、普通は「それ」と気づきません。

自分のセンサー(感度計)にひっかかった存在を、人間は自己流に「解釈」します。たいがいは、「無視していい存在」、「自分にとって大事じゃないこと」、といった形で。

でも、まれに別の「解釈」が浮かびます。「これって何か意味があるかも」、「面白いな」、「もっと知りたい」。好奇心と探究心の対象になったとき、何かが動き始めます。

自分のセンサーが自己流の「解釈」をし、それが眠っていた好奇心や探究心を刺激する。「たいへんそうでいやだな」と逡巡する感覚はずっとあるのに、その奥にもっとポジティブな何かがほのかに見えてきます。そのとき、自分が何かの「主人公」だというかすかな感覚が芽生えるのです。

「旅立ち」とは、「自分の物語が動き出す」こと―。

ところで、secoさんは、「個人的に物語を現実の感覚に引き込めない自分がいます。人生は物語の連続なんでしょうが、物語ってけっこうきつい。だから物語は・・・空想かな」と言っいましたね。そういうあなたこそ、実はけっこう「英雄っぽい」のかもしれません。「旅」のたいへんさを自覚できる感度が、英雄の器を作っていくからです。意外ですか?

 


>⑨

(seco)
意外ではないですよ。頑張れば英雄になれるのでしょう・・おそらく。結果的に英雄になる、というのはわかります。

でも、英雄のようにたくさんの試練を乗り越え、多くの人に助けをいただき・・・(意地悪だろうがなんだろうが)そんな大変なことからは逃げたいので、英雄は他の誰かで良いと思っています。

「旅」の大変さを自覚できるからこそ、英雄にはならなくていいと思える。「旅」の大変さを自覚できない純粋無垢な人が、英雄への道を歩める気がします。

  
だから、誰でも英雄というのは違うはず。


 


>⑩

(梅本龍夫)
「アラビアン・ナイト」に、ペルシア王シャリーマンの一人息子で若き美貌の皇太子ザマンが、王妃を娶(めと)らねばならぬ、という父王の再三の提言、要請、勧告、そして最後通達までことごとく拒絶する話が出てきます。

ザマン王子は、たくさんの詩人の韻文を引いて、結婚がいかに愚かかを語り、「されば父上、夫婦(めおと)の生活なぞは、たとえ死の杯を賜ろうともわたしとしては承服いたしかねる問題にございます」と結びました。

シャリーマン王は、王子の言葉を聞いて、目の前が真っ暗になり、ひどく嘆き悲しみました。

―(引用:ジョーゼフ・キャンベル著『千の顔を持つ英雄』上巻84頁)


secoさん、このアラビアンナイトの物語の主人公みたい。
ザマン王子の運命やいかに??



pyankoさんは、冒険の旅への呼びかけの問題、どう見ていますか?


>⑪

(pyanko)
サマン王子が、結婚したかどうか、すごく気になります。

 
『冒険の旅への呼びかけの問題』ですが、人の行動は、内的要因と外的要因の両方からの総合的判断で決まると思います。
 
例えば、私は飛行機は嫌いなので、飛行機に乗ってくれと言われても断りますが、ロケットに乗ってくれと言われれば、自分の中の興味が勝って、喜んで乗るかもしれません。
 
また、外部からの助言に従うこともあれば、従わないこともあると思います。苦労や苦痛にしたって、それが快楽になることもありますし・・・
 
また、そうした判断材料の中に、「超自然的な存在の手助け」の割合が、どのくらい含まれるかは、人それぞれだろうと思います。似たところでは、「占い」とかも、どこまで信じるかで、行動は、変わるでしょうし・・・
 
それらの総合的な判断の中で、行動していった人の中に、結果として「英雄」が現れる。
というふうに、今のところは、感じています。
 
『冒険の旅への呼びかけ』が単体として、行動に結びつくことはないのではないかと。それとも「英雄」には、行動への判断基準の中に特別なものってあるのでしょうか。


>⑫

(梅本龍夫)
ザマン王子の運命はすごく気になりますよね。この物語がどう展開するかは後でまた見ていきます。

 
pyankoさんは、「冒険の旅への呼びかけ」も、「超自然的な存在の手助け」も、あるいは「占い」をどうとらえるかも、どれもこれも、言ってみれば「人それぞれ」という考えですね。
 
まさにそこがポイントです。仮に、神のような存在が、まったく同じメッセージを100人に与えたとします。その受け止め方、解釈の仕方(「スルー」してしまうことも含めて)は、100人100様。ひとつとして同じものはありません。
 
これこそが、「物語」が存在する理由です。「物語」は、ひとつとして同じものはありません。全部オリジナルで、どれもが新しく創られていくのです。もしこの世が、神様が決めた路線をただ機械のように進むのであれば、ある意味で楽かもしれませんが、これほど退屈なこともありません。
 
「物語でビジネスも人生もうまくいく?」が、この「まじめな雑談」の主題です。従ってここでは、「ビジネスは(そしてたぶん人生そのものも)物語なんだ」ということを、とりあえず仮説としてスタートしています。
 
この「物語法」が有効に機能するための唯一にして最大の前提は、「自分が物語の主人公なんだ」ということを受け入れることです。
 
ところが、この当たり前のことが、なかなかできない。神話の英雄が、「なんかたいへんそうだから」という、なんともいい加減な理由で、「神からの呼びかけ」を断ってしまうのは、とどのつまりは「自分の物語の主人公になりたくない」からです。
 
『アーサー王と聖杯の物語』は、典型的な英雄譚(たん)ですが、この物語に心躍るシーンがあります。それは、アーサー王の宮廷の騎士たちが、自ら誓いを立て、失われた聖杯を探しにいくと宣言したあとです。騎士たちは、誰一人同じ道を進みませんでした。彼らは、道などひとつもない暗い森に分け入り、ある者は北へ、別の者は南へ、また東へ西へと、別々に冒険の旅を始めました。
 
目の前に決められた道などない。こちらに進みなさいと導く者もない。それでも旅立つ。いや、それだからこそ旅立つ。「失われた聖杯を探せ」とアーサー王が命じたわけではありません。ひとりの騎士が提案し、みなが賛同したのです。それは、「内なる声」に応える行為でした。彼らは、誰にも代わりができない「自分の物語」「自分の人生」の主人公になりたい、と立ち上がり、それぞれの方角へと旅立っていったのです。


BRITISH LIBRARY

つづきは、
ストーリーボードNo.4で。



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