2013.02.05 tue

バルバラの歌 ~フランス田舎暮らし(15)~

バルバラの歌 ~フランス田舎暮らし(15)~


土野繁樹


仏独共同閣僚会議(ベルリン)2013年 1月 22日  Spiegel International  
 
ドルドーニュの今年の冬は、うんざりするほど雨が降り続いている。そんな日々のなか、わたしの楽しみはARTE(仏独共同テレビ局)の番組だ。実は、この10年間TVなしの生活だったのだが、作年末にパラボラ・アンテナを取り付け、TVのある暮らしを再開した。
 
無数にあるチャネルのなかで、文化チャネルARTEは異色で面白い。話題の映画、ドパルデューの‘ラスプチーン’や大島渚の‘愛のコリーダ’(音声は日本語で仏語字幕)を見ることができたし、ドキュメンタリーが充実している。なかでも、仏独和解50周年(1月22日)の記念番組は見応えがあった。そのなかで、バルバラの歌’ゲッチンゲン’が両国民を感動させ、歴史を変えたことを知った。
 
ARTEは、ベルリンの壁が崩壊する前年の1988年、ミッテラン仏大統領とコール独首相による、ヨーロッパ人とくに仏独国民を対象にしたテレビ局創設の合意から始まっている。その後、長い交渉を経て、仏独共同出資による会社が創設され、1992年に放送が開始されているから、20年の歴史のあるテレビ局である。本部はストラスブール(仏)とバーデンバーデン(独)にある。番組はすべて仏語と独語で放映され、ドイツで制作された番組には仏語の字幕がでて、逆の場合には独語の字幕がつく。
 
ARTEの創立理念は、国際的番組を制作し「仏独両国民の文化レベルでの融合を計り、ヨーロッパの文化統合を目指す」とあるから、EUの理念に沿ったものだ。とはいえ二つの国の文化は共通性もあるが、違いも大きい、近くて遠い関係である。ARTEは文化チャネルだが、そもそも仏語のCultureと独語のKulturは 定義が異なっている。前者は美術、音楽、映画、文学、ダンスなどだが、後者はそれに加えて、人文科学、民俗学、人類学、社会テーマも入る。創立記念番組は ‘ファラオの呪い’だったが、現在、放映されている番組を見ると、文化の定義は幅広い。
 
番組の質は高く、ドキュメンタリー40%、映画20%、TV映画10%、その他ニュースなどで、トーク・ショーとスポーツは放映しない。番組全体の85%が独自制作(仏30%、独30%、その他の欧州諸国25%)だから、ヨーロッパ・チャネルの名にふさわしい。
 
1963年1月22日、エリゼ宮殿で調印された仏独友好条約は、宿敵が恩讐をこえて和解の道を選んだ歴史的条約である。その背景にあるドラマを連載エッセー5 仏独和解50周年で素描したが、ARTEの記念特別番組―ドイツ連邦議会議事堂での式典、仏独首脳と両国の若者の対話集会、ベルリンフィルの記念コンサート、‘友好条約までの長い道‘(ドキュメンタリー)と’ドゴールとアデナウワー(ドラマ)‘-は、両国関係を知るのにまことに有益なものだった。そのなかで、印象に残った場面をいくつか紹介してみよう。
 
ドイツ連邦議会議事堂に両国の首脳、閣僚、議員がほぼ全員参集している光景は圧巻だった。式典の前に共同閣僚会議(写真)が開かれ、式典ではメルケル独首相、オランド仏首相が演説をした。‘1963年の条約は勇敢な選択だった’(オランド)‘両国の協力でEUは大きく前進した’(メルケル)と語ると大きな拍手が起こった。
 
両首脳の若者(仏独200人)との対話集会での、質問の大半はフランスの若者で、ドイツの若者はおとなしかった。‘初めに言葉ありき’のフランス教育制度の効用だろうか。EU圏での若者の失業率は高い。フランスでは22%だ。失業中のフランスのマドモアゼルが質問に立っていた。オランドは全力でこの最重要課題に取り組んでいると答えたが、即効薬はなさそうだ。
 
40周年記念式典はべルサイユ宮殿で行われたが、その翌日の仏フィガロ紙の見出しは‘理性の結婚’だった。いまや仏独は切っても切れない深い関係になったが、情熱がもたらした結果ではない、というわけだ。ガウク独大統領が50周年の式辞のなかで、‘両国の関係は情熱的な理性に基つくものだ’と言うと、議事堂は笑いに包まれた。


ドゴール(右)とアデナウワー パリ 1964年11月 German.info
 
式典のスピーチでは、繰り返し友好条約を結んだドゴールとアデナウワーへの敬意が表され、二人がはじめて肝胆相照らした日のことをドラマ化した番組があった。1958年9月、ドゴールはアデナウワーを小さな村コロンべ・レ・ドゥ・ゼグリーズにある自宅(パリから車で2時間)に招く。ドイツ語に堪能なドゴールが、アデナウワーを書斎に案内しゲーテやシラーの蔵書を見せ、余人をいれず二人だけで食事をし、暖炉の火の前で語り明かす場面が印象に残った。その日から二人は会合を重ね、6年後に独仏和解の象徴であるエリゼ条約に調印した。
 
西独のディ・ツァイト紙の敏腕記者テオ・ゾンマーが、1963年1月22日の条約式典の雰囲気を伝える記事を書いている
 
アデナウワー独首相の乗る特別機がオルリー空港に到着したのは、1月20日だった。その日、空港からエリゼ宮近くのカールトン・ホテルまでの道路は凍てついていた。アデナウワーのパリ訪問は18回目で、今回の独仏和解条約への調印は、14年間の首相在任中で最も重要な仕事だと思っていた。同時に、彼はその前途が多難であることもよく分かっていた。
 
調印式は午後、エリゼ宮のミュラの間で行われた。静寂のなかで二人の首脳は条約に署名した。ドゴール(72歳)がまず署名しアデナウワー(87歳)が続いた。ドゴールは短いスピーチをした。「わたしの心は喜びで溢れている。わたしの精神は感謝に満ちている。誰もこの条約の重要性を疑う者はいない。これは、血にまみれた長い戦争の歴史に終止符をうち新たな頁を開くだけでなく、フランス、ドイツ、ヨーロッパ、そして世界の明日を開く扉である」
 
そのスピーチが終わると、参列者の視線はアデナウワーに集まった。しかし、いつもはその場にふさわしいスピーチをする彼は黙ったままだった。彼は心ここにあらずと言った感じだった。(感極まったのだろうか)と参列者はいぶかしがった。やがてアデナウワーは「将軍閣下、わ たしが言いたいことを、すべて仰ったので、なにも付け加えることはありません」と言った。ドゴールはその場を救った。彼は両手を広げてアデナウワーに近づ き、両ほほに友好のキスをした。式典は5分で終わり、ドゴールはアデナウワーを2階に案内しながら「首相閣下、これは統合の始まりです」と言った。


バルバラ                                      BBC News
 
1964年7月、ひとりのフランス人歌手がドイツの大学都市ゲッチンゲンの駅に降り立った。歌手の名はバルバラ。彼女を出迎えたのは、その町の小劇場の若い支配人クラインだった。彼女は半年前にパリでクラインの熱意にほだされて、この町での公演を約束したことを後悔しはじめていた。
 
パリで生まれたユダヤ系フランス人の彼女には、ドイツ軍がパリを占領していた頃の余りに辛い思い出があった。彼女と両親は、ヴィシー政権の警官によって逮捕され、ナチスの強制収容所に送られる恐怖に怯えながら、パリ市内の隠れ家を転々とした体験をしていた。少女のころドイツに迫害されたわだかまりがあったのだ。
 
バルバラがコンサート会場の劇場に着くと、古くて巨大なピアノが鎮座していた。このピアノでは聴衆が見えないので、弾き語りができない、と彼女が抗議すると、今日はピアノ運送業者がストで打つ手がない、とクラインは言う。
 
彼女が公演を諦めかけていたとき、クラインが元気で感じのいい10人の学生を連れてきた。彼らはフランス語ができた。一人の学生が近所の老婦人がコンサート用の黒いピアノを貸してくれるので、これから運ぶという。開演におくれること90分、逞しいブロンドの髪の10人の若者がグランド・ピアノを劇場に運び入れ、コンサートは始まった。「その夜のコンサートは素晴らしく感動的だった」とバルバラは自伝『それは黒いピアノだった』で語っている。
 
翌日、学生たちはガイド役を買ってでた。バルバラはこどものころに慣れ親しんだ童話の書き手グリム兄弟の家を見学した。彼女は契約を延長し、1週間ゲッチンゲンに滞在し、毎晩劇場でシャンソンを歌った。聴衆のなかに大学院生だったシュレーダー(ドイツ首相)がいた。彼は「バルバラの歌はわたしたちの心を揺すぶった」とエリゼ条約40周年の記念式典で語っている。最後の公演がある日の午後、彼女は劇場ちかくの小さな庭で‘ゲッチンゲン’の歌詞を走り書きした。その夜のコンサートで、彼女はメロディーも歌詞も未完成だが、と断って‘ゲッチンゲン’を歌い、パリでこの歌を完成させた。


Barbara - Gottingen (1967) - YouTube
  
 
 もちろん、そこにはセーヌ川も
 ヴァンセンヌの森もない
 でも、なんというバラの花の美しさ
 ゲッチンゲンよ、ゲッチンゲン
 
 パリでもゲッチンゲンでも
 子供たちは同じ
 流血と憎悪の時代が
 決して戻って来ませんように
  
 なぜなら、ここには
 わたしが愛する人々が
 いるのだから
 ゲッチンゲンよ、ゲッチンゲン
 
後にバルバラは この歌はクラインの熱意、10人の学生と老婦人の親切、聴衆の温かい声援、そして、彼らの和解への強い願望への感動から生まれたものだ、と語っている。こうして生まれた反戦歌、仏独和解の象徴ともいえるシャンソンは、50年経った今でも両国で歌い継がれ、フランスの小学校の教科書の教材になっている。
 
 
 

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著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

フリー・ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て
「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。