土野繁樹
Erasmus Spain
ロッテルダムのエラスムス(1466-1536)は16世紀ルネサンスの先駆的思想家であった。彼の肩書を今様にいうと、学者・ライター・編集者・翻訳者ということになる。エラスムスはヨーロッパ中を旅し、学び、教え、書き続けた人文主義者であった。その著作に当時ヨーロッパでベストセラーになった『痴愚神礼賛』がある。誰にでもわかる言葉で人間を語った彼は「盲人の国では、独眼の男が王様になる」「いかなる状況でも賢明である人などいない」などの警句を残している。そして、エラスムスは『平和の訴え』を書いたコスモポリタンである。
ロッテルダムのエラスムス wikipedia
その彼の名を冠したEUの留学制度が創立されたのは1987年である。今年で25周年を迎えるエラスムス計画に、これまでヨーロッパ33か国(トルコも含める)が参加し、300万の学生がEU諸国へ留学、研修をしている(平均留学期間は6か月)。創立の年には参加者数3000人だったものが、昨年は23万人、ヨーロッパの高等教育機関4000が留学生を受け入れているというから、大プロジェクトだ。学生だけではなく交換教授制度もあり、これまでに30万人が異国で教壇に立っている。EUのエラスムス年間予算は4億5000万ユーロ(450億円)、授業料は留学生を送る国の負担となっている。
第二次大戦直後、世界平和の礎は人と人の交流にある、との信念で始まった国際交換留学制度、アメリカのフルブライト・プログラムとAFS(アメリカン・フィールド・サービス)の大きな貢献はよく知られている。前者の総参加者数40万人、後者は30万人(高校生対象)だから、エラスムス・プロジェクトの規模の大きさがわかる。
Europea / Giovani / Bruxelles / Studio / Finanziamenti / Progetti Ue
世界で最も成功した交換留学制度と言われるこのプログラムに参加した若者の声を聞いてみたいと思い、わたしはEUのサイトに載っている30人の若者の体験談を読んでみた。留学とインターンシップ(研修)の二つのプログラムがあるが、いくつか例を挙げてみると、ベルギーの女子学生がリトアニアの大学で哲学を学ぶ、アイルランドの男子学生がフィンランドの大学で工業デザインを専攻する、ブルガリアの医学生がイタリアの医科大学で研修する、マルタの観光マネージメントを学ぶ女子学生がルクセンブルグの高級ホテルで研修する・・と多彩だ。
ショート・エッセーのなかで、彼らは率直にその体験を綴っている。家族と離れはじめて異国で暮らす不安、新しい言葉で苦労するがジョークが通じたときの嬉しさ、国際語である英語の大切さを知る、留学先の国の歴史や文化に目を開く、受け入れ先の人々の親切に感激する・・エラスムス体験は貴重だった、世界を別の眼で見るようになった、人生を変えたと語っている。そして、彼らは共通して、国境を越えて親しい友人ができたことの喜びを記し、エラスムス留学生仲間の友情が繰り返し語られている。
歴史を専攻するオーストリア人男子学生が、フランス西部の中世都市ポアチエの大学に留学していたときのことを次のように書いている。「最も心温まる思い出は、エラスムス留学生仲間と共に過ごした時間だ。ある晩、わたしはフランス、アメリカ、カナダ、ドイツから来た仲間と町に繰り出した。その日、われわれは気づいたのだった。数世代前までは、お互い銃口を突き付けていたのに、今こんな風に親しく会話しているのは、なんとラッキーなことかを。わたしにとってエラスムス計画の本質はこれだ。隣国の人々を知り、お互い他の文化から学ばなくてはならない」。そのエッセーのタイトルは“昨日の敵は、今日の友”だった。
エラスムス留学生を主人公にしたフランス映画もある。スぺインのバルセロナの大学にやってきた、同じ下宿で暮らす7か国7人の学生の恋と挫折と不倫と友情の物語はヒットし、日本でも10年前に「スパニッシュ・アパートメント」と題され公開されていた。クラビッシュ監督は、普通の人々の生活のなかのドラマを温かく、ユーモラスに描くことで定評があるが、その年、この映画を見た若者がエラスムスに応募し参加者が急増したという。
エラスムス・プロジェクトのポスター
映画と言えば世界的ヒットとなったミステリー『薔薇の名前』の原作者で記号論学者のウンベルト・エコが、今年はじめにエラスムス・プロジェクトについてインタビューを受けていた。この記事はヨーロッパの主要5紙(仏独伊西波)の共同“EU特集”の一部で、5か国語に翻訳されて掲載されていた。(ヨーロッパでは時々このようにメディアの世界でも国境を越えた共同プロジェクトがあるのは面白い。テレビの世界では仏独共同制作チャネルARTE(アルテ)がある)
エラスムス・プロジェクトの意義について聞かれた彼は次のように言っている。「エラスムス交換学生制度を新聞はほとんど扱わないが、このプロジェクトは若い第一世代のヨーロッパ人を創ってきた。わたしはこれをセックス革命と呼ぶ。スペインのカタロニアの若者がベルギーのフラマン語圏の娘と恋をして結婚しヨーロッパ人となる。彼らの子供もヨーロッパ人となる。エラスムス計画は学生だけだはなく、タクシー運転手、配管工などの勤労者にも広げ義務化すべきだ。これはなにを意味するかと言うと、彼らもEU圏内の諸外国で時間を過ごす必要があるということだ。そうすれば彼らも同化する」
エラスムス計画は第一世代のヨーロッパ人を育ててきた。彼らはジェネレーションE(欧州世代)と呼ばれている。プログラム発足から25年、第一期生はヨーロッパ社会の中核で活躍している。国境を越えた市民・ジェネレーションEの影響力はますます大きくなるだろう。
【フランス田舎暮らし ~ バックナンバー】 著者プロフィール
土野繁樹(ひじの・しげき) フリー・ジャーナリスト。 釜山で生まれ下関で育つ。 同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。 TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て 「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。 2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。 |