土野繁樹
『わが長距離飛行:パリ―東京』の挿絵
ドルドーニュの田舎道を車で走るのは爽快だ。樫,栗、松などの樹に囲まれた曲がりくねった緑の道を、わが家から15分も走ると、ドアジーさんの館がある。館の正面にある壁は長さ70m、高さは5m、両端に黒い尖塔があるから、まるで要塞のようだ。
ドアジー邸
この館のご主人ジャン・ドアジーさんは退役軍人(大佐)で、奥さんとのんびり暮らしている。かつて、彼の叔父ペルティエ・ドアジーは、日仏友好の象徴として知られた人だった。彼のことは『絹と光―知られざる日仏交流の歴史』(クリス・コッポラ著)の中に詳しくでてくるが、まさか、その甥が隣人だとは思ってもいなかった。偶然、町のスーパーでドアジーさんの奥さんからそのことを聞き、館を訪ねたのだ。この田舎にもJapon connexion(ジャポン・コネクスィヨン)ありである。
ペルティエ・ドアジー(1892-1953)は偉大な飛行機乗りとして、パリ―東京長距離飛行にはじめて成功した人だった。今では二都市間の飛行時間は12時間だが、1924年のこの冒険飛行のときには、平均時速168㎞で120時間もかかっている。もちろん一挙に飛んだのではない。2万㎞を20の都市(ブカレスト、バグダッド、カラチ、北京など)を中継し47日間かけている。
ペルティエ・ドアジー大尉
ドアジーさんは「叔父は人生を愛する愉快な人で、パリ―東京飛行の帰路、インドで虎狩りをした話をしていたよ。若いころ苦労したので部下にやさしかったね」と懐かしそうに語っていた。資料をいろいろ貸してくれたが、最も興味深かったには、ドアジー大尉(当時)の回想録”Mon Raid-Paris Tokyo” (わが長距離飛行:パリ―東京)だった。この本には400馬力のプレゲ型機カトリーヌ(大尉の1歳の娘の名前)号で,機関士ブザンとともにパリの飛行場を飛び立つ光景からはじまっている。
韓国の大邱を発ち対馬海峡を渡り、19番目の中継地、大阪に着いたのは1924年6月8日だった、大尉は回想録に次のように書いている。「飛行場には、我々を歓迎するための大テントがかけられていた。出迎えの人々の万歳、万歳の大歓声のなか、山のような花束とプレゼントを受け取った」翌日の東京での歓迎ぶりも熱狂的だったようで、着物姿のマドモアゼルが、二人の遠来の客の肩車にのっている微笑ましい写真も残っている。
大尉は大阪の飛行場で,思いもよらぬ友人と再会している。第一次世界大戦の戦友で、ともにドイツ軍を相手に空中戦をした日本人パイロットが、フランス陸軍の士官服を着て彼を出迎えたのだった。回想録で大尉は「大戦中ずっとフランスのために前線で戦ってくれた同志バロン滋野の出迎えを受け、わたしは非常に感動した」。
『バロン滋野の生涯―日仏のはざまを駆けた飛行家』(平野国夫著、文芸春秋)を読むと滋野は大正時代のコスモポリタンであることがわかる。
滋野清武は14歳で男爵家の当主となり、1910年に28歳で渡仏し、パリの飛行機クラブで操縦技術を学び,日本の民間人として初の万国飛行免許を取得している。その後帰国するが、民間飛行練習所の設立準備のために、再びフランスに戻る。間もなく大戦がはじまり、滋野はフランス陸軍飛行隊に志願し大尉として活躍、レジオン・ドヌール勲章を授与されている。彼が所属した鵠の鳥(コウノトリ)飛行大隊は、敵機を5機以上撃墜したパイロットのエリート集団であった。パイロット仲間から彼はバロンと呼ばれ親しまれていたという。
滋野清武とジャーヌ夫人 『バロン滋野の生涯』(文芸春秋)より
渡仏中に彼はリヨンでエイマール・ジャーヌという女性と恋をし結婚した。帰国し大阪住吉で暮らしていた頃の写真を見ると、二人は床の間を背に和服姿、手に扇子のお似合いの夫婦である。写真を撮った4年後に、滋野はドアジー大佐と劇的な再会を果たすのだが、二人が握手をする隣で、ジャーヌ夫人が赤ん坊の次男を抱いている姿が映っている。残念なことに滋野はその半年後に胃病で42歳の若さで亡くなった。
二人の男の子を抱えて、32歳で未亡人になったジャーヌ夫人の苦労は大変だったようだ。長男の男爵相続問題で、滋野家から二人のこどもを残してフランスへの帰国を迫られたが、彼女はそれを拒否している。その後、大佛次郎夫人などを相手にフランス語の個人教授をし、その収入で親子三人が細々と暮らしている。やがて太平洋戦争がはじまり、二人のこどもは兵役にとられ、長男は満州に送られる。戦後、長男のジャーク・清鵠はピアニストとなり、次男のロジェ・清旭は画家となり、ジャーヌ夫人は1968年72歳で亡くなった。
ドアジーさん
ドアジーさんを再訪した日、わたしは平野さんの滋野伝を持参した。「この和服姿の滋野夫妻の写真いいでしょう。でも、太平洋戦争中、ジャーヌ夫人は外国人だったから、大変な苦労をされたようです」とわたしが言うと、朗らかなドアジーさんは一瞬沈黙し、哀しい表情になった。そのあと彼は「一杯やりましょう」と言った。
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著者プロフィール
土野繁樹(ひじの・しげき) フリー・ジャーナリスト。 釜山で生まれ下関で育つ。 同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。 TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て 「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。 2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。 |