東京新聞2012.02.25朝刊28-29面
原子力ムラでまん延 「東大話法」
「東大話法」の例:
参照:Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E8%A9%B1%E6%B3%95
「東大話法」の規則1が、日本のエリートの問題を端的に表しています。
「信念」ではなく「立場」に合わせる。ここに最大の問題があります。
立場を優先するとき、本当の問題を見据えて解決しようという信念は曇ります。
優先順位を少しずつ変節させるうちに、真実が覆い隠され、
公のために責任を果たそうとする高貴な動機も薄らぎます。
日本のエリートは、既定のレールに乗ってリスクを取らないという批判は、
昔からありました。こうした批判が今でも変わらず出てくるのは、なんだかんだ
言っても、ローリスク・ハイリターンの日本型エリートモデルが通用しつづけ、こ
のレールに乗りたい、という優秀な人たちが後を絶たないからでしょう。
「官僚にも学者にも、あるいはメディアにも自分の言葉を持つ人たちが
わずかにいる。そんな一人一人の存在でかろうじて社会がもっている。
もし人間社会がひきょう者の集団になったら、社会秩序は維持できない。」
新しい日本型エリートの可能性~「衆知主義」の時代
ではどうするか。
本来のエリートらしいエリートを排出する有効な方法は
いろいろと考えられると思います。
しかしここでは視点を変えて、エリートのやるべきことを
自分たちがさっさとやってしまったらどうなるか、想像してみたいと思います。
普通の人々が、「自分の言葉」を持ち、責任ある発言をし、身をもって行動する。
エリートができないことを、自分たちでどんどんやってしまう。
もし、普通の人々がそんな風に考え、行動しはじめたら、どうなるでしょうか。
間違いなく、日本型エリートは廃業に追い込まれます。
それが「衆知主義」の時代ではないか、とリグミでは考えています。
衆知、すなわち多くの人々の知恵やアイデアを集めて社会を変えていく時代に
着実に入りつつあります。エリートに任せきりにできない、という気運が震災後
大きくなっています。
しかし衆知主義は、エリートを否定すべきではありません。
むしろエリートは重用するものです。なぜなら、社会はエリートの能力、専門性、
判断と実行を必要としているからです。衆知主義の時代の大きな「違い」は、
エリートと一般の人が「対等」だということです。
為政者やエリートに盲目的に追従するのでなく、リーダーに説明責任を求め、
協働で社会的なテーマに取り組む新しいフォロワー像。
私たちは、そういう自分たちの在り方、姿勢を、少しずつ実践していきたいと思います。
エリートを批判するのは簡単です。しかし、本当の問題に、世界の真実に、
真正面から向き合うのは、エリートだけの義務ではありません。
批判し糾弾するエネルギーの一部を、前向きで建設的な方向に振り向け、
エリートに人々のために高貴な義務を果たしもらうように積極的に促し、励まし、協働する。
そんな衆知主義の実践ができれば、何かが変わります。
エリートに輝いてもらう社会を創ることこそ、大地震、大津波、そして原発事故の時代を
生きる私たちの知恵なのではないでしょうか。