土野繁樹
シュタウフェンベルク大佐(左)とヒトラー総統 1944年7 月15日
Bundesarchiv Bild
ヒトラー暗殺計画は15回も試みられたが、いずれも失敗している。今回の戦後70年にちなむ歴史探訪エッセーでは、そのなかでヒトラーの命が危機一髪であった3つのケースを取り上げた。第一は1939年11月の大工エルザーが仕掛けた時限爆弾事件、第二は1943年3月、トレスコウ少将が実行したコンドル爆破計画、第三は1944年7月、シュタウフェンベルク大佐が首謀したヴァルキュール作戦である。
歴史に「もし」はないと言われる。過去の出来事を変えることはできないと言う意味ではそれは正しい。しかし、「歴史の必然」がないのも確かだろう。命を賭けて歴史の流れを変えようとした3人の勇気ある行動を記憶にとどめたい。
ゲオルク・エルザー ミュンヘンのビアホールで演説するヒトラー ALAMY
わずか13分の差でヒトラー暗殺に失敗した男がいた。その人の名はゲオルク・エルザー(1903-1945)。ドイツでこの4月に公開された映画『13分』は、第二次世界大戦開戦の直後、紙一重の差でヒトラーを仕留めることができなかったドイツ南部の小さな町の36歳の大工の物語である。ベルリン映画祭で評判になったこの映画の監督はオリヴァ―・ヒルシュゲル、秀作『ヒトラー最後の12日間』(2004年)で知られている。
1939年11月8日、ヒトラーはミュンヘン一揆の拠点ビアホール「ビュルガーブロイケラー」で、恒例の記念演説をしていた。その日、彼は満員の聴衆を前にして連合国をからかい、ドイツ軍のポーランドへの電撃作戦の成果を誇っていた。しかし、ヒトラーもナチス幹部も熱狂する聴衆も、演壇から数メートル離れた柱に埋め込まれた時限爆弾が作動し時を刻んでいることを知らなかった。
午後8時に演説をはじめたヒトラーはベルリン行の汽車に乗るために、早めに演説を切りあげ会場をあとにした。その日、ミュンヘン空港は濃い霧のため飛行機が離陸できず、急遽、予定を早め汽車になったのだった。ヒトラーが去った13分後、時限爆弾は破裂し8人の死者と多数の負傷者がでて、彼が立っていた頭上の天井が落ちた。霧のお蔭でヒトラーは命拾いをしたことになる。
エルザーはどのようにして暗殺計画を実行したのか、その動機はなんだったのだろう。
ゲシュタポはスイス国境を越えようとしていた彼を職務尋問し逮捕した。そのきっかけになったのは、彼がポケットに入れていた爆弾のスケッチとビアホールの絵葉書だった。ゲシュタポ本部で親衛隊長官ヒムラーがエルザーを直接尋問している。彼はひどい拷問を受けたが、背後関係はない自分の意思でやったとの主張を曲げなかった。
1960年代に発見されたゲシュタポの尋問記録によると、彼は前年から、ヒトラー政権の下では「戦争は避けることができない」と思い暗殺計画に取り組んだと供述している。同記録によると、彼はシュワーベン地方の兵器工場で仕事をしながら、密かに爆発物の実験を繰り返し、そのあとでミュンヘンのビアホール「ビュルガーブロイケラー」で爆破装置の取り付け作業に取り掛かった。
エルザーはビアホールに午後遅く着き、簡単な食事をしてホール内で隠れ、閉店して従業員がいなくなると、柱にアナをあけ爆弾を埋め込む作業をした。尋問調書によると彼はその作業に30日以上もかけている。その作業は緻密で慎重を極めたものだった。
エルザーはゲシュタポに「夜のホールは空っぽなので、小さな音でも大きく響く。だから、音が大きくなる作業のときには、10分ごとに自動的に流れるトイレの水の音に合わせて作業をした」と語っている。発見される危険がつねに付きまとっていた。すべての音に耳を研ぎ澄まし、柱を削ったあとのかけらを残すことなく集めなくてはならなかった。
ゲシュタポは暗殺計画の背後には英国諜報部などの大きな組織があると疑っていた。戦後も黒幕説が信じられていたが、事実は彼の単独犯であった。名著“Hitler 1936-1945 Nemesis”(ヒトラー:1936-1945 因果応報)の著者イアン・カーショ―は「エルザーは労働者階級の普通のドイツ人で、誰の助けもなく、誰に知られることもなく、ひとりで行動した」と書いている。
歴史家ロジャー・ムアーハウスは「彼は正義感がきわめて強い」男だったと書いている。シュピーゲル誌によると、彼は共産党に一時関係したが政治集会にはほとんど出ず、チター(弦楽器)を奏で、女性に人気のある男だった。彼はヒトラーの演説がラジオから流れてくると席を立ったというから、徹底的なナチス嫌いだった。エルザーはドイツのオーストリア併合、チェコのズデーデン併合以降、ヒトラーが戦争に突入することを怖れていた。彼は、爆弾が破裂すると多くの人々が巻き添えになることを知っていたが「暗殺を実行することで、さらなる血が流れることを食い止めたかった」とも語っている。
ゲシュタポは彼をすぐに処刑せず強制収容所に送り、ドイツが無条件降伏をする直前の1945年4月に処刑した。ヒトラーは英国諜報部の関与の疑いを捨てきれず、それが証明できればエルザーをプロパガンダ目的の公開裁判にかけるつもりだったので、彼を生かしていたという。処刑される前、彼はダッハウ強制収容所の親衛隊員に「暗殺の動機は、ヒトラーを生かしておくとドイツは没落すると思ったからだ。すぐに処刑してもらいたかった」と語っている。
昨年、ドイツのアンゲラ・メルケル首相はエルガーを公式に「自分の意思で戦争を防ごうとした」反ナチス抵抗運動のヒーローとして称えている。
トレスコウ少将 「水晶の夜」に炎上するシナゴーグ 1938 11月9,10日 Das Bundesarchiv
1943年 3月 13日、ヒトラーが東部戦線のドイツ中央軍集団の本部があるウクライナのスモレンスクを視察した。その日、軍集団の主席参謀へ二ング・フォン・トレスコウ少将は、ヒトラー総統暗殺計画を実行する。トレスコウは、ヒトラー歓迎昼食会の席で総統副官ブラント中佐に、ベルリンの参謀本部に勤務する友人シュ―ティフ大佐に2本のコニャックを渡してほしいと依頼した。彼が「実はちょとした賭けに負けてね」と言うと、中佐は気軽に「喜んで」と言い引き受けた。ベルリンと戦線本部の間に飛行便があれば、こんな小包の輸送はよくあったので、なにも特別なことではなかった。
トレスコウの部下は、ベルリンへ帰るヒトラー専用機コンドルが離陸体制に入りタラップを上がるブラントに‘コニャックの包み’を渡した。しかし、これはコニャックではなく英国製の爆弾だった。それは直前に起爆装置を始動していたので、30分後にミンスク上空で爆発しコンドルは空中分解するはずだった。しかし、爆発は起こらずヒトラーは無事ベルリンへ到着した。その原因はいまでも明らかでない。おそらく、機内の温度が低すぎて爆発を妨げたのだろう。暗殺作戦の失敗を知ったトレスコウは慌てた。包の中身が露見すると、この陰謀を企てた同志の将軍、将校が一網打尽になるかもしれない。トレスコウはブラントに電話をし「別の包みを渡してしまったので、預かっていてほしい」と言った。翌朝、彼の部下がベルリンに飛び、ブラントに本物のコニャックを渡し爆弾を回収した。絶好のチャンスをふいにした反ヒトラー派の将官の失望は大きかった。
この総統暗殺を企てた中心人物トレスコウ(1901-44)は、当初はベルサイユ条約体制に反旗を翻し、秩序を回復し、どん底のドイツ経済を再建したヒトラーの支持者であった。しかし、トレスコウはしだいに彼の人物と政策に疑問を持つようになり、第二次世界大戦前に、早くも彼はドイツを救う道はヒトラー打倒しかないと確信していた。この点で彼は、戦局が悪化してヒトラー暗殺計画へ加わった将官とは、決定的に異なっていた。
トレスコウはプロシアの名門貴族の3男として生まれた。父は将軍であった。第一次大戦に16歳で参戦し、戦後は大学で法律と経済学を学び、銀行に勤めたが辞職し世界一周の旅にでる。英、仏、米、ブラジルを訪れたあと、彼は故郷マクモブルグに戻り小さな工場を経営した。1924年、彼はヒンデンブルグ元帥の推薦で陸軍に入隊、26年に元参謀総長の娘エリカと結婚(のち3人のこども)、1936年陸軍大学で参謀教育を受けトップで卒業した。彼は、軍服は着るのは必要最小限、リルケの詩を引用し、英語と仏語をしゃべる軍人らしからぬ軍人だった。彼は冷静、謙虚、鉄の意思の人だったが、なによりその強烈なパーソナリティが人を惹きつけたという。
ドイツ陸軍のエリートである彼がヒトラーへの不信が決定的になったのは、1938年の「水晶の夜」事件だった。事件はナチス政権のユダヤ人迫害政策の集大成ともいうべきものであった。その年の11月の2日間、ヒトラー親衛隊と一群の市民は、ドイツ全土でユダヤ系市民を殺害し、彼らの商店を略奪し、1000のシナゴーグを破壊した。それを黙認したヒトラーに怒ったトレスコウは国防軍を辞めることを考えたが、友人に「ヒトラーを排除するために、君が必要だ」と説得され留まった。その翌年、彼は軍人の従兄弟に次のように言っている。「ヒトラーとナチスを倒すことは、われわれの義務であり名誉がかかっている。野蛮からドイツとヨーロッパを救うために、全力を捧げるべきだ」。
第二次世界大戦の幕開けとなった1939年9月のポーランド侵攻作戦に彼は歩兵師団の参謀長としてとして従軍した。彼は戦線でのヒトラー親衛隊のユダヤ人、ポーランド人、ロシア人の無差別殺戮にショックを受け、ヒトラー暗殺の決意を固めていく。トレスコウは参謀本部のスタッフとしてフランス侵攻作戦計画を練りその成功に貢献しているが、1940年6月、ドイツ中がその勝利に酔いしれているときでも、醒めた眼で戦争の行く末を見ていた。パリを訪れた彼は秘書に「もしチャ―チルがアメリカを説き伏せてあの国が参戦すると、その物質的優位でドイツはじわじわと確実に粉砕されるよ」と言っている。
トレスコウが参画したドイツ国防軍将校によるヒトラー暗殺計画は、1938年にさかのぼる。ヒトラーが英米に戦争をしかけると知った彼らは、無謀な冒険主義だと思い計画を練り始めた。しかし、ミュンヘン会談で戦争が回避され、翌年、第二次世界大戦がはじまると電撃作戦が大戦果を挙げたので、その気運は一挙に萎んでしまった。しかし、1943年2月、スターリングラード攻防戦でドイツ軍がソ連軍に敗北し戦況が悪化すると、このままではドイツは破滅するとの危機感が高まり、反ヒトラー派将校よる暗殺計画がいくつも実行されたが、将軍クラスの日和見、ヒトラーの予定変更、実行者の逡巡などでいずれも失敗に終わっている。しかし、1943年秋に、国防軍の若きエリート参謀シュタウフェンベルクが、トレスコウの率いる反ヒトラー将官グループに加わったことで、‘暗殺とクーデター’のダブル作戦「ヴァルキュール」が計画され展望が開けてきた。
シュタウフェンベルク大佐 ヒトラー親衛隊のよるポーランド人の公開処刑
1942年6月 クラクフ Wikipedia
ブライアン・シンガー監督、トム・クルーズ主演の映画にもなった「ヴァルキュール作戦」のドラマを語る前に、その首謀者クラウス・フォン・シュタウフェンベルク(1907-1944)の人生の足跡を紹介してみよう。
彼はバイエルンの伯爵の三男として生まれた。祖先にはプロシアをナポレオン軍から守った英雄グナイゼンウ元帥もいた。18歳のとき建築家になるか軍人になるかで迷ったが後者を選んだ。青年時代、彼が最も影響を受けたのは、ロマン主義、神秘主義の詩人ショテファン・ゲオルゲだった。1926年ドイツ軍に入隊し、30年、名門の娘ニナと結婚した。1938年、軍事大学を主席で卒業し参謀としてのキャリアを歩む。彼は長身でハンサム、頭脳明晰で読書家、気さくだがカリスマ性があったから、上官、同僚から信頼され誰もがその将来を嘱望する人物であった。そして、なにより行動の人であった。
当時の青年将校と同じようにシュタウウフェンブルクは、ヒトラーのベルサイユ条約破棄と軍備拡張に魅かれたが、反ユダヤ主義には反対だった。彼はヒトラーの対英仏戦争には批判的だったが、第二次世界大戦がはじまり彼はポーランドとフランスの作戦に参加し、ドイツ軍の破竹の進撃、圧倒的勝利を見て総統の軍事戦略の才能を称賛している。
しかし、1941年独ソ戦がはじまると彼は参謀本部勤務となり、参謀としてロシア戦線を度々視察しその残酷な実態を知ることになる。1942年の春、ヒトラー親衛隊のウクライナにおけるユダヤ人大量虐殺の詳細な目撃報告を部下から聞き、その野蛮さにショックを受ける。そのあと、彼は信頼する東部戦線の将軍、元帥にヒトラー打倒のリーダーになってほしいと要請するが断られている。
1943年春、彼は北アフリカの第10装甲師団参謀長だったが、チュニジアで英軍の機銃掃射を浴び、左眼、右腕、左手の指2本を失った。一時は視力を完全に失うかもしれないと診断されたが左眼は快復し、ミュンヘンの病院で3か月治療を受け退院した。普通の男なら陸軍を退役しただろうが、彼はそうはしなかった。重要なミッションがあったからだ。3本の指でペンを握り書く練習をし、国防省の高官に現役復帰を要請する手紙を書き、国内予備軍(100万)の軍務局参謀長となった。1944年5月、彼は国内予備軍総司令官フロムの参謀長となり、ヒトラーに直接ブリーフィングをする立場になった。チャンス到来である。
その頃、シュタウフェンブルクは幼い4人の子供の母である妻のニナに次のように言っている。「自分はドイツを救うために、なにかをやらねばならないと思う。われわれ参謀本部のスタッフは責任の一端を負わねばならない」
シュタウフェンベルク大佐と4人のこども Le Figaro hors-serie
1944年7月20日午前10時15分、隻眼、片腕の青年将校、シュタウフェンブルク大佐(38歳)と彼の副官へフラン中尉が乗るユンカース型軍用機が東プロシアのラステンブルグ空港に到着した。ベルリンから2時間の飛行だった。彼らは出迎えの車でヒトラーの大本営がある「狼の巣」へ向かった。その日、国内予備軍参謀長である大佐は、ポーランドと東プロシアへ投入する師団について総統に報告する任務を帯びていた。
総司令部で大佐は、ヒトラー臨席の作戦会議が地下の会議室ではなく地上の木造兵舎の会議室に変更され、午後、ムッソリーニが到着するので会議開始が30分繰り上げられ12時半になることを知らされた。11時30分から始まった総司令部でのシュタウフェンブルク大佐とカイテル元帥(国防軍最高司令部総長)との事前打ち合わせが終わったのは12時15分だった。
打ち合わせが終わると大佐は元帥に「会議に出る前にシャツを着変えたい」と言った。その日は真夏日だった。大佐は急がなくてはならない。爆弾が入っている大佐のブリーフケースを持ってへフラン副官が廊下で待っていた。二人は小部屋に入り、二つの爆弾に時限装置の信管を取り付け始めた。爆弾の重さは各1キロだった。大佐は三本の指で一つ目の信管を取り付けた。外でいらいらして待っていたケイテル元帥の副官が大声で「会議が始まる。急げ」とせかせると大佐は「分かった。すぐに行く」と言った。二つ目の爆弾に信管をつける時間はなかった。その爆弾と信管はヘフラン副官の鞄に入れられた。これが運命の分かれ目になった。
爆破された大本営会議室を視察するゲーリング(白い軍服)
1944 年7月 Wikipedia
シュタウフェンブルク大佐が厳重に警護された木造兵舎の会議場(戦傷者は親衛隊によるチェックはない)に着くと、24人が席に着き作戦会議はすでに始まっていた。その日もヒムラーはいなかった。ヒトラーは長テーブルの中央に座って、参謀本部の作戦部長から急速に悪化する東部戦線の戦況報告を受けているところだった。ケイテル元帥が大佐を紹介するとヒトラーはうわの空で握手をし、作戦部長の戦況報告をうながした。大佐が自分は戦傷で耳が遠いので、総統に近い席に座ることができないか、とケルテルの副官に頼むと、ヒトラーから一人置いた場所に席が準備された。大佐は爆弾が入っているブリーフケースを、大テーブルを支える樫の脚の手前に立てかけて置いた。爆風がヒトラーを直撃する場所に置いたのだ。しばらくしてシュタウフェンブルグ大佐は席を立った。ヒトラーの副官ブラントはブリーフケースが邪魔だと思いを脚の右側の奥に押し込んだ。これが、運命の分かれ目だった。
この会議では重要な電話などで席をはずすのは普通だったから、席を立った大佐を誰も気にとめなかった。彼は副官へフランが手配した空港へ向かう車へ向かった。12時45分、木造兵舎の方向で耳をつんざく爆発音がした。その音を聞いた一人の将校は、おどろいた様子はなかった。ここでは、ときどき地雷に動物が引っかかるという。大佐と副官を乗せた車は猛スピードで6キロ先の飛行場に向かった。第一と第二の検問所はなんなく通過したが、第三検問所でひっかかった。誰も通すなと警報がでていたのだ。通過を拒否する検問所の将校に手をやいた大佐は、知り合いの当直士官に電話をして通行許可をとり苦境を切り抜けた。二人が飛行場で待機していた軍用機がベルリンへ飛び立ったのは1時15分だった。大佐は爆発でヒットラーが死んだと確信していた。
ベルリンへ向かう飛行機のなかで、彼はやっと事が成ったと思ったにちがいない。なぜなら7月15日に絶好のチャンスがあったのに、実行できなかったからだ。その日、大本営「狼の巣」でヒトラーへのブリーフィングがあり、彼は爆弾を準備し暗殺を実行するつもりだった。しかし、会議前にヴァルキュール作戦の総指揮官、ルートヴィヒ・ベック元参謀総長から「ヒムラーが同席していなければ、作戦を中止せよ」との命令を受けとる。将軍は、国防軍とヒムラーの親衛隊との間の内戦を怖れていたのだ。大佐は会議をぬけだして、ベルリンの国防省の最も信頼する同志メルツ・フォン・クレルンハイムに電話をかけ、暗殺実行を主張しベックの許可を得ようとする。しかし、将軍の答えはノーだった。大佐は「作戦を実行すべきだと思うが、君の考えはどうか」と言うと、クイルンハムは「やってくれ」と言った。大佐が会議室に戻るとヒトラーはいなかった。その夜、シュタウフェンブルクは、そのいたたまれない気持ちを友人に語っている。
作戦会議室 ヒトラーは①シュタウフェン③、爆弾は黒印
Wikipedia
ヒトラーは死んでいなかった。爆発で4人が死に重軽傷7人をだしたが、彼は軽傷だった。木造とガラス窓の会議室への爆弾の効果には限界があったのだ。コンクリートの地下会議室での爆発だったら、効果絶大で確実に総統暗殺計画は成功していただろう。それに、二つ目の爆弾に起爆装置をつけなくとも、ひとつの爆弾が作動すれば爆発が起こることに大佐も副官も気づいていなかった。それに、ブリーフケースの位置が替えられたこともある。
硝煙が舞い瓦礫の山となった会議室からヒトラーができてきた姿を見て、ケイテル元帥は涙を流し「総統、あなたは生きていらっしゃる」と言った。地下壕の自室に戻ったヒトラーは、苦笑いをしながら「誰かがわたしを殺そうとしたよ」と身の回りの世話をする下士官に言った。司令部では姿を消したシュタウフェンブルク犯人説が浮上し、2時には身辺調査が始まっていた。しかし、その時点では爆破事件が、軍の反ヒトラー派のクーデター計画の一環であることは知られていない。
暗殺が確認されると同時に「ヴァルキュール作戦」が実行に移される手はずになっていた。ヴァルキュールは北欧の神話に登場する女神で、彼女は戦場で誰が死ぬかを決める力を持つ。この場合、女神の標的になったのはヒトラーだった。ヴァルキュールはワグナーのオペラ「ニーベルングの指環」の第二幕の歌曲、コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」のテーマ音楽として知られている。
「ヴァルキュール作戦」は、そもそも国内騒乱などの事態に対応するために作られた軍事作戦であったが、それをトレスコウとシュタウフェンブルグが改編しクーデター計画のために逆利用したのであった。計画によると、ヒトラー親衛隊による政府乗っ取りの陰謀が発覚したと公表し、ヒムラー、ゲッペルス、ゲーリングなどのナチス指導者を逮捕し臨時政府を樹立、そのあと連合軍との和平交渉を開始するというシナリオだった。
しかし、作戦開始命令をだすことになっていたオルブリヒト大将は、大本営のクーデター派の将校から爆発の連絡はあったがヒトラーの死が確認できないという理由で出動命令を下すことをためらった。反ヒトラーの大本営の将官が‘狼の巣’とベルリンの間の電話回線を切り、事件後2時間交信が断たれていた。その間にクーデター作戦を展開していたら、状況は変わっていたかもしれない。午後4時前、国防省に戻ってきたシュタウフェンブルクはなにをぐずぐずしていたのだと激怒し「あの爆発でヒトラーは死んだ」と言った。やっと「ヴァルキュール作戦」命令が下されたが、オルブリヒト大将の逡巡で貴重な時間が失われてしまった。
その頃、大本営のケイテル元帥は暗殺未遂事件の首謀者はシュタウフェンブルクだと疑っていた。彼は国内予備軍総司令官フロム大将に電話をかけ、ヒトラーの生存を知らせ大佐の居所を尋ねた。フロムはヒトラー暗殺計画を黙認していたが、風向きに敏感な男だったのでこの電話でクーデター派を見捨てた。
クーデター鎮圧のため動員された親衛隊と国防軍 1944年7月20日
国防省 Wikipedia
「ヴァルキュール作戦」に基づいて、クーデター派の総指揮官は国防省から二つの声明を各地の軍司令官宛に送った。第一の声明は、「ヒトラーは死んだ。ナチスの無責任な指導者の一団は戦場を知らずに、軍を背後から刺そうとした。従って、われわれは非常事態を宣言する」。第二の声明は、フロムの偽の署名を使ったもので「すべての通信施設を守り、ナチス幹部を全員逮捕、強制収容所を占拠しその司令官と看守を拘束、親衛隊司令官を全員逮捕、ゲシュタポのすべてのオフィスを占拠せよ」という内容だった。
午後5時、シュタウフェンブルグとオルブリヒト大将はフロム総司令官の執務室を訪れ、反乱への参加を要請した。だが、フロムはそれを拒否したので、大佐は彼を逮捕し別室に監禁した。
午後6時30分、クーデター派のベルリン防衛司令官のハーゼは警護大隊長レーマーを呼び「親衛隊が反乱を起こした。陸軍は鎮圧の全権を与えられている。したがって貴官にベルリンの政府機関の建物に非常線を張る命令を下す」と言った。熱烈なナチス党員ではあるが、命令には忠実なレーマーは直ちに行動し、ベルリンの中枢部は封鎖され反乱軍のコントロール下に入った。また「ヴァルキュール作戦」のシナリオに沿って、予備軍が動員命令が下され、主要ラジオ局、交差点、ベルリン周辺の橋を確保した。反乱軍の標的となったヒムラーは親衛隊をまったく動かさず、音なしの構えだった。彼は‘風向き‘を見ていたと言われる。
午後7時 しかし、ベルリン防衛司令官ハーゼの命令でゲッペルス宣伝相を逮捕する任務を帯びた警護大隊長レーマーが彼の執務室に入った瞬間に流れは一挙に変わる。そのときまでレーマーはゲッペルスを疑っていたのだが、宣伝相はヒトラーを電話で呼びだし、受話器を彼に渡した。ヒトラーは「自分の声がわかるか」と言い、「君に首都の安全を任せる。あらゆる手段を使って反乱軍を粉砕せよ」と命じた。レーマーは直ちに政府の建物の封鎖を解いた。
午後8時、反乱軍の拠点、国防省に軍の全権を委ねられたヴィッツレーベン元帥が到着した。彼はヒトラー暗殺が失敗したと聞き激怒し「ドジな奴だ」と言い残し帰ってしまった。
午後9時 監禁されたフロム大将は反撃にでた。大将と同室に監禁されていた将校が、上の階へ通じる秘密の階段を知っていたので、それを利用して他の将校に情状を説明した。ヒトラー暗殺失敗とヴァルキュール作戦の真相を知った将校は動揺し「シュタウフェンブルグ政権などまっぴらだ」と言い、オルブリヒトに説明を求めた。彼はそれには答えず、国防省の防衛を命じた。
午後10時 それに怒った将校の一団は武装してクーデターを阻止すべく、反乱軍の首謀者との間で銃撃戦を交わし彼らを逮捕した。釈放されたフロムは執務室でシュタウフェンブルグ、オルブリヒト、クイルンハイム,へフランと対峙し「先ほどのお返しをするよ」と言い彼らを逮捕した。
零時30分 フロムはクーデター計画への黙認を隠ぺいするため、即席の軍法会議を開き「総統の名で、4人を死刑に処す」と宣言した。4人は国防省の前庭に引き出された。銃殺隊が車のライトで照らされた4人を処刑した。シュタウフェンブルクの番になったとき、副官のへフランが身を投げ出し殺された。ヴァルキュール作戦の首謀者であるシュタウフェンブルクは「聖なるドイツ、万歳」と叫び銃弾に倒れた。
国防省の中庭にあるシュタウフェンブルグの像 ここで
彼は処刑された。Le Figaro hors-serie
ヴァルキュール作戦に関与した軍人、民間人へのヒトラーの報復は苛酷だった。彼は5000人を逮捕し人民裁判で彼らを裁きその多くを処刑した。見せしめのためのピアノ線による絞首刑までやっている。その記録映画を見てヒトラーは復讐心を満足させていたというから異常だ。国民的英雄であったエルヴィン・ロンメル元帥も事件に関与していたので、自殺に追い込まれた。
首謀者のシュタウフェンブルクの家族への報復も凄まじかった。親衛隊長官ヒムラーは、シュタウフェンブルク家の財産をすべて没収し、大佐の妻ニナを強制収容所へ送り、4人の幼いこどもを孤児院に収容した。大佐の親族は厳しい尋問にあい、双子の兄の一人ベルトルト海軍法務官は暗殺計画に深く関与していたので、拷問され処刑された。もう一人の兄アレクサンダーは関係していなかったが、収容者送りとなった。
ヴァルキュール作戦の翌日、ポーランド西部の戦線にいたトレスコウ少将は、暗殺・クーデター失敗の連絡を受け手榴弾で自決した。筋金入りの反ヒトラーの少将は、多くの暗殺計画に関与し推進したが、この作戦の成功率は高くないと見ていたようだ。彼は次の言葉を残している。
「もはや、成功するかどうかの問題ではない。これは、ドイツの抵抗運動が命を賭けて敢えて勝負にでたということを、世界と歴史に示すためだ。この目的の前では、他のことはたいしたことではない」(1944年6月)
これは、国防軍の一部がナチス犯罪国家に挑んだという事実を歴史に刻みたい、という彼の心情の発露だろう。
ヒトラーが暗殺され、クーデターが成功していたら、その後の世界史の流れは変わったのだろうか。ドイツ国防軍がヒムラーの親衛隊を抑え込み、クーデター派が一挙に政権を掌握したにしても、彼らが目論んでいた連合軍との西部戦線での和平交渉による名誉ある条件付き降伏の可能性はほとんどなかったと思われる。なぜなら、作戦の一月以上前の6月6日に連合軍は地上最大の作戦ノルマンディー上陸に成功し、勝利を確信しベルリンへ向かって進軍していたからだ。連合軍の首脳、ルーズベルト、チャ―チル、スターリンはドイツの無条件降伏に合意していたから、クーデター派にはそれ以外の選択肢はなかった。
トレスコウもシュタウフェンブルグもそのことを理解していたようだから、ドイツの破滅を避けるために降伏し終戦が早まった可能性は高い。ヴァルキュール作戦失敗からベルリンの地下壕でヒトラーが自殺するまで戦争は9ヵ月続き、連合軍とドイツ軍の何百万の兵士と市民が死傷した。この期間にドイツ人は480万死亡しているが、それ以前の5年間のドイツ人の死者は280万だから、終戦が早ければこれほどの犠牲者はでずにすんだだろう。
強制収容所に入れられたシュタウフェンブルクの妻ニナは、幸いにも終戦で解放された。ゲシュタポに逮捕されていたとき妊娠していた彼女は独房に入れられ、半年後、親衛隊の病院で女の子を出産した。孤児院に偽名で収容されていた4人のこどもも無事で、戦後まもなく母と子は再会した。戦後長い間、シュタウフェンブルク大佐は裏切り者と思われていたから、遺族は肩身が狭かったにちがいない。しかし、やがて彼が評価される時代がきて、1980年には国防省内に国立レジスタンス記念館ができ、大佐が処刑された中庭に彼の彫像が建ちヒーローとなった。昨年、その中庭でヴァルキュール作戦70周年記念式典があり、ガウク大統領が出席し彼の勇気を称える演説をしている。
1939年のエルザーのヒトラー暗殺が成功していたら、歴史へのインパクトはヴァルキュール作戦以上に大きかったと思われる。いや巨大だったのではなかろうか。死者6000万をだした世界大戦とホロコーストを防げたかもしれないのだ。その意味では、ヴァルキュール作戦の影に隠れてしまっているこの事件は高く評価されていいと思う。学歴もなく、ごく普通の労働者であったエルザーは、大多数の国民が抱いたヒトラーへの期待と熱狂に背を向け、ナチスの危険性をいち早く嗅ぎ取り、1人でヒトラー暗殺という大仕事を企てたのだから凄いというしかない。
シュピーゲル誌はエルザーを「ドイツの真のヒーロー」と呼んでいる。
註:筆者はこの歴史探訪記を書くために、以下の著作と記事を参照した。“Hitler 1936-1945 Nemesis”Ian Kershaw著 2000刊、”Stauffenberg A family history,1905-1944”Peter Hoffmann著 1995刊,”The man who missed killing Hitler by 13 minutes ”Chris Bowlby記者 2015・4 ・5 BBC News, ”A German Hero: The Carpenter Elser Versus Fuhrer Hitler‘”Claus Christian Malzahn記者、2005 ・11 ・8 Spiegel online
【フランス田舎暮らし ~ バックナンバー】著者プロフィール
土野繁樹(ひじの・しげき) フリー・ジャーナリスト。 釜山で生まれ下関で育つ。 同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。 TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て 「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。 2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。 |