2015.04.21 tue

デンマーク人の勇気 ナチスからユダヤ系市民を守った物語

デンマーク人の勇気 ナチスからユダヤ系市民を守った物語


~フランス田舎暮らし(38)~
 
土野繁樹
 
デンマークの漁船でスウェーデンに脱出するユダヤ人    Museum of Danish Resistance
 
 
今年は、1945年ヒトラーの第三帝国が消滅し、原爆投下によって軍国日本が無条件降伏し第二次世界大戦が終結、その70年目にあたる。ナチス・ドイツは狂気のユダヤ人絶滅作戦を実行し600万を殺害したが、その悪夢のような現実のなかで、一条の光明のような出来事があった。それは、1943年秋、ナチス占領下のデンマークで国を挙げてユダヤ系市民を守ったドラマである。オランダ、ベルギー、フランスなどでは、ドイツ占領軍の圧力に抗しきれずユダヤ人迫害に協力し(あるいは積極的に)、女性、こども、老人を含む多くの人びとを強制収容所に送ったが、デンマーク人はそれを断固拒否し、ユダヤ系市民のほぼ全員8000人を隣国の中立国スウェーデンに逃した。
 
筆者はこの出来事を描いた、“Countrymen(同胞たち)“Bo Lindegaard・ブ・リンデガード 著 2013刊を読んでデンマーク人の勇気に感動し、ヒトラー親衛隊(SS)が果たした役割におどろいた。今回のエッセーでこれを読者のみなさんに紹介しようと思う。著者はデンマークの前外交官で歴史家、現在、同国の代表的日刊紙ポリティケンの編集長である。本の題名「同胞たち」には、国王から庶民まで同胞が一致団結して、同胞であるユダヤ系市民をナチスに抵抗して救った勇気への敬意が込められている。
 
ドイツ軍占領下、護衛なしでコペンハーゲンの街を馬で闊歩するデン
マーク国王クリスチャン10世                    Wikipedia
 
1941年9月初旬、デンマーク首相ブールは老年の国王クリスチャン10世に、ナチス・ドイツ占領軍がますます傲慢になり、無理な要求をしている現状を考えると、将来、デンマークのユダヤ系市民の安全が脅かされるのではないか、「陛下はどう思われるか」と問うた。
 
国王はその日の日記に次のように書き残している。
 
「ドイツ国内だけではなく、被占領諸国でのユダヤ人への非人道的なあつかいを見ると、将来、ナチスがわが国に同様な要求をしてくるのではと心配だ。もし、そのような要求があった場合、われわれは憲法に従って断固として拒否すべきだ。デンマーク市民へのそのような要求をわたしは拒否する。もしナチスがそれを要求した場合、われわれは皆‘ダビデの星’のバッジをつけようではないか、と首相に言うと彼は即座にそれは妙案ですねと応じた」
 
デンマークは北欧で最も勇敢なバイキングを祖先にもつ国で、その王室は、日本の天皇家と同じく万世一系で1000年も続いているが、国王クリスチャン10世は剛毅な人だった。1942年にヒトラーがクリスチャンの72歳の誕生日を祝して長い電報を打った時、彼はそれの返礼として僅かに一行「どうもありがとう。国王クリスチャン(Meinen besten Dank. Chr. Rex)」とのみ返電し、ヒトラーを激怒させている。彼は5年間にわたるナチス・ドイツの占領中の抵抗の象徴として絶大な人気があった。
 
本題に入る前に当時のヨーロッパのユダヤ人迫害の状況を素描しておこう。
 
その頃、ドイツと国境を接するポーランド、オランダ、ベルギー、フランスはもとよりヨーロッパの大半の国がナチスの占領下にあった。ナチスは占領地域で厳しい軍政をしき、ゲシュタポ(秘密警察)とヒトラー親衛隊(SS)による恐怖政治で市民を支配し、とりわけユダヤ系市民への迫害は言語を絶するすさまじさだった。ユダヤ人であるというだけで、彼らを逮捕し、貨物列車で強制収容所に送りガス室で殺害した。
 
ナチスの強制収容所は、ヒトラーが政権をとった1933年から存在していたが、はじめはナチスに反対する政治犯が対象だったが、のちにユダヤ人大量虐殺の代名詞となった。
 
1942年1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼの湖畔にある親衛隊の瀟洒な別荘で、「ユダヤ人問題に関する最終的解決」をテーマに会議が開かれた。会議を招集したのは、第三帝国ナンバー3のヒムラーの右腕ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将だった。15人の出席者は各省の次官クラスで、その大半は博士号をもち弁護士だった。その日、議事録を作成したのが、親衛隊ユダヤ課長アドルフ・アイヒマンだった。
 
ヴァンゼ会議が開かれた部屋                    Wikipedia
 
この会議で、ユダヤ人のドイツ占領地域からの追放、強制収容、奴隷労働、計画殺害が決定された。最終的解決とは「ユダヤ人絶滅」であった。実際には、それ以前にもヒムラーの命令で、ポーランド、ソ連の占領地域で、こども、女性、老人を含むユダヤ人の皆殺しが実行され、すでに死の収容所の建設を開始していたので、ナチス政権はこの会議で政府諸機関が足並みをそろえて国策を「効率よく」遂行することを確認したといえる。その証拠に、ヴァンゼ会議は90分で終わっている。
 
英国の軍事史家アントニー・ビーヴォーは、大著“The Second World War”(第二次世界大戦)2012年刊でこの会議で「銃弾によるShoah(ショア、ヘブライ語で絶滅の意=ホロコスト)はガスによるShoahになった」、これは「殺人の工業化だった」と言っている。
 
ビーヴォーはヒトラーの「殺人の工業化」は自動車王ヘンリー・フォードの流れ作業にヒントを得たという説を紹介している。フォードはシカゴの屠畜場を見て大量生産システムのアイデアを思いついたというから、この連鎖はやりきれない。ともあれ、反ユダヤ主義者だったフォードは1920年代はじめ『国際ユダヤ人』という本を書き、その脅威を主張した。この本はドイツ語に翻訳されヒトラーとその側近の愛読書となり、ミュンヘンのヒトラーの事務所の壁にフォードの写真が掲げられていた。1938年、ヒトラーはフォードに外国人に与えられる最高勲章を授与している。戦後、ナチス強制収容所のニューズ・フィルムを見たフォードは衝撃のあまり心臓発作を起こし、それが原因で亡くなったと彼の友人が書き残している。
 
1942年の終わりまでに、ナチス・ドイツはヨーロッパとソ連のユダヤ人400万人とロマ(ジプシー)40万人を強制収容所で殺害(上記の“The Second World War”による)し、45年5月の降伏の直前までホロコストは続いた。このような状況のなかで、1943年9月、ベルリンの親衛隊本部はデンマークのユダヤ市民を一斉逮捕し強制収容所へ送ることを決定した。
 
アウシュヴィツ強制収容所で生き残ったこどもたち                 Wikipedia 
 
当時のデンマークにおけるナチス・ドイツの全権代表はウェルナー・ベストであった。彼は親衛隊の最高幹部のひとりで、フランスのドイツ占領軍の民生本部長としてレジスタンス撲滅とユダヤ人の強制収容所送りに腕を振るい、ヒムラー長官の信頼が厚かった。1942年11月、べストが全権代表としてコペンハーゲンに赴任する前、ヒトラーは直接彼に会い二つの任務を命じている。第一の任務はデンマークをモデル占領国として統治すること、第二は、ユダヤ人絶滅作戦を遂行することだった。
 
ナチスのデンマーク占領統治は、他の占領地域と比べると緩やかだった。その背景にはデンマークがナチスの侵略にほとんど抵抗することなく、軍門に下ったことがある。1940年4月、ドイツ軍は不可侵条約を無視して突然、国境線を越えてきた。国王クリスチャン10世は、軍部の抗戦論を退け降伏を選んだ。国軍がナチスの巨大な軍事力に対抗しても、人命と国土が破壊されるだけだと考えたのだ。一方、ドイツはデンマークへの関心はノルウエー攻撃のための空軍基地と豊富な農産物の供給地としての価値であった。降伏後の交渉でデンマークが協力を約束したので、ドイツは、デンマーク政府の自治を容認し、議会政治、司法の独立、自由選挙などの民主制度を保持したままの間接統治を選んだ。ヒトラーにとって、このデンマーク統治モデルは、将来ナチスがヨーロッパ全土を支配するときのプロパガンダでもあった。しかし、デンマークは民主的選挙で選ばれた政府が統治しているとはいえ、ドイツ国防軍、親衛隊、ゲシュタポを背景に究極の決定権はナチスが握っていた。
 
1943年8月、ドイツの全権代表ベストは、レジスタンスによるサボタージュとストライキの激化に手をやき、デンマーク政府に戒厳令の施行とサボタージュをする者への死刑執行を要求する。政府はそれを拒否した。その結果、ドイツ軍は戒厳令を発令し、3000人のデンマーク将兵とユダヤ教ラビの指導者をふくむ“危険人物“100人を拘束した。それに反発した政府は統治に責任がもてないとの理由で、総辞職しその機能を停止する。この時点で「協力の政治」の時代は終わり、ドイツ軍による直接統治となった。ベストは9月8日、ベルリンへ電報でユダヤ問題の解決着手を具申した。これは、後述するベストのダブル・ゲームの幕開けだった。ヒトラーは9月17日に作戦命令を下し、10月1日にユダヤ系市民6000人(ナチス推定)を一斉逮捕し強制収容所へ送る作戦命令を下した。
 
ドイツ全権代表ベスト(右)とデンマーク首相スカヴェ二ウス 
Frihedsmuseets fotoarkiv,
 
ベストは親衛隊ナンバー3の高官で、前任地フランスでは情け容赦のないユダヤ人迫害政策を遂行(5年間の占領中に7万6000人を死の収容者へ移送)した法務官僚だが、デンマークの指導者の間ではマナーが良い紳士として評判は悪くなかった。彼と交渉すれば、妥協が成立すると期待感さえ抱く者もいた。
 
ベストはナチス第三帝国の地方総督のような存在だったが、コペンハーゲンの代表部でその彼を支えていたのが治安担当のカンスタインと海事担当のドゥクウィッツだった。二人はナチス党員であった。カンスタインはベストの旧友で、占領当初からデンマーク政府とのデリケートな交渉の現実をよく知っていた。ゲオルグ・ドゥクウィッツは戦前コペンハーゲンの船舶会社で働き、デンマーク語を自由に話しこの国の要人と交流がある、ベストが最も信頼する部下であった。二人の関係は仕事の上だけではなく、家族ぐるみの付き合いもあった。3人のチームの絆は強かったが、二人の部下が密かにヒトラー暗殺計画に参加していることをベストが知っていた証拠はない。
 
デンマークを第二に故郷と思うドゥクウィッツは、ユダヤ人迫害政策を実行すると、デンマーク人は怒り、レジスタンス運動が激しくなり、モデル統治どころではなく収拾がつかなくなると考えていた。それに、ナチスにその政策は非道だと思っていた。しかし、職務上、表だってこの政策に反対するわけにはいかない。ヒトラーの作戦命令がでた日、ベルリンからゲシュタポの実施責任者が準備のためコペンハーゲンに到着した。その数日後、彼は日記に「いま何を自分がやるべきかを分かっている」と密かにその決意を記している。
 
9月21日、ドゥクウィッツは列車で隣国の中立国スウェーデンの首都ストックホルムへ行き、翌日スェーデン首相ハンソンと3時間の会談をした。会談の内容についてのスウェーデン側の記録はなく、ドゥクウィッツは両国関係についてとだけノートに記している。しかし、実際には彼はスウェーデン首相に、デンマークのユダヤ系市民への逮捕命令がでていることを知らせ、難民受け入れを要請した可能性がきわめて高い。その証拠に、彼の日記に次のような記述があるからだ。「わたしは自分のやっていることの責任を自覚している。善いことをしているという信念がある。アンマリー(スイス人妻)は全面的に賛成してくれた」。
 
9月28日、ベストはユダヤ人逮捕、追放の最終命令を受けとった。その日、ドゥクウィッツは露見すれば国家反逆罪で裁かれる危険な行動にでる。彼は面識のある社会民主党首のトフトに至急会いたいと電話をいれ労働者会館に向かう。会議室には、トフトと党幹部と前首相ブールが待っていた。ドゥクウィッツは「破局が迫っている」と切り出し「すでにすべてが準備されている。コペンハーゲン沖に移送船が錨を下ろしている。ゲシュタポに逮捕されるユダヤ人の同胞は、その船で彼らの運命を決める場所に運ばれる」と伝えた。その場にいた出席者の一人は「彼は怒りと恥で顔面蒼白だった」と書いている。
 
社会民主党首トフトは直ちに党幹部に指示して車を走らせ、あらゆる方面にその情報を伝えた。トフト自身は、最高裁判所判事でユダヤ人会長のヘリケスの邸宅へ駆けつけた。彼は10月1日深夜にユダヤ人逮捕作戦が実施されると告げると、ヘリケスは「それはウソだ」と言い信じなかった。しかし、情報源を明かすとやっと納得し、ユダヤ人会のネットワークを通じてそのニュースが流された。
 
ドゥクウィッツは労働会館での会合のあとスウェーデン公使と会いその情報を伝えた。公使は直ちにストックホルムの本省に電報を打った。
 
ドゥクウィッツのその日のリークは上司のベストの了解、指示のもとで行われたようだ。戦後の彼ら自身の証言でも、二人は緊密に相談しながら、ユダヤ人移送の衝撃を最小限にするために情報を流したと言っているから、それは事実だろう。それでは、なぜベストは「ユダヤ人問題」の解決をベルリンへ進言したのかという疑問がわく。彼の複雑な動機についてはあとで触れる。
 
ゲオルグ・ドゥクウィッツ               gf-duckwitz.weebly.com 
 
アドルフ・マイヤーはコペンハーゲンで有名な小児科医で、人望あるユダヤ人会の理事でもあった。彼は9月26日の日記で、戒厳令の発動以来、ユダヤ人社会のなかに噂が飛びかい不安が渦巻いている、武装兵士を従えたゲシュタポがユダヤ人会を訪れ、会員の名簿を持ち去った事件に触れている。また、その日のゲシュタポと会事務局スタッフのやりとりを書き残している。「ゲシュタポが会計責任者ヘルツに‘帳簿を見せろ’と言うと、彼は‘何の権利があって、みなさんはここに来ているのか’と聞いた。ゲシュタポは‘強い者の権利だ’と平然と言い放った。ヘルツは‘その権利はよくない’とドイツ語で答えた」
 
そのゲシュタポの発言は、「法の支配」を否定するナチスの社会ダービニズムの世界観(強者が世界を支配する)を、正直に口にだしたのだろうが、ヘルツの勇気ある言葉はデンマーク人の気持ちを代弁していた。
 
ともあれ、マイヤー医師はその日記のおわりに、ユダヤ人逮捕、追放の噂があるが、デンマーク政府の代表としてベストと接触した外務省の高官が、それを否定しているのだから、信じるしかないと書いている。
 
マイヤーには双子の娘があり、それぞれ結婚し家族があった。キスの夫グンナ・マルクスは衣料ビジネス仲介業で、息子ドルテ(9歳)と娘パレ(6歳)の二人のこどもがあり、インガの夫ポール・ホノヴオは機械工場の専務で息子アラン(13歳)と娘メテ(9歳)がいた。彼らはメイヤー医師と同様に、デンマーク社会に完全に同化し、占領下ではあったがなんの不自由もなく暮らしていた。
 
9月28日、デンマーク市民である医師とその双子の娘一家の平和な暮らしが突然崩壊し、生死をかけた祖国からの脱出を迫られる。『同胞たち』の著者は、この歴史ドキュメンタリーを書くにあたって、それまで未公開だったこの家族4人の詳しい日記を発見し、それを軸にリアルタイムでスウェーデンへの脱出劇を再現している。日記を読むと、歴史に運命を翻弄された彼らのショック、不安、混乱、恐怖がひしひしと伝わってくる。
 
ドゥクウィッツが流した10月1日深夜ユダヤ人逮捕の情報はたちまちコペンハーゲン中に広がった。マイヤー医師の娘婿ホノヴオは、その日仕事を終え帰宅すると、友人から電話では話せない重要な要件があるので、至急自宅まで来てほしいと連絡をうける。車で駆けつけると、友人はそのニュースを知らせた。ホノヴオはすぐに帰宅し、妻に危険が迫っていることを伝え、3人の兄弟に電話した。息子のアランは「庭で父と3人の兄弟がなにやら深刻なことを相談していた」と記している。ドゥクウィッツのもたらした情報は、マイヤー医師の耳にも入った。彼はその日の日記に「息子(双子の娘の兄)の話によると、彼が事務所にいないときに、3人のゲシュタポが来て、息子の行先を尋ねたという。同僚からそのことを聞いた彼は家族とともに友人の家に隠れた。わたしも今晩は同僚の家でお世話になっている」。彼の娘婿ホノヴオは日記に次のように記している「これから何が起こるのかと思うと眠れない。まさかこんなことになるとは、考えてもいなかった。田舎に隠れてもだめだろう。この国を去るしかない」
 
9月29日、ユダヤ人社会は大混乱に陥っていた。これからどうするのか、どこに隠れるのか、国外脱出の手段はあるのか。ホノヴオの家族も混乱していた。妻は荷物をまとめはじめた。ホノヴオは何人かの友人に国外脱出の手ずるはあるかと尋ねたが、誰も心当たりがなかった。途方に暮れているとき、顔見知りの警官が通りかかったので相談した。すると彼はしばらくして、フォルスタ地方にいる男が、スウェーデンへ向かう漁船を手配できるかもしれない、と連絡してきた。ファルスタはコペンハーゲンの南120キロにありドイツ海岸に近いが、贅沢を言っている余裕はない。その日の午後、ホノヴオはスウェーデン領事館でヴィザを取得し、国鉄駅に行き行動をともにするマイヤーの双子の娘のマルクス家の分も含めてノイカ―ビン駅行きの切符8枚を買った。その時点ではまだ何も起こっていないので、ホノヴオにはすべてのことが非現実的に思えた。その日は彼の46歳の誕生日だった。
 
その日はマイヤー医師の72歳に誕生日でもあった。病院の同僚とスタッフから祝福を受けた彼は、ユダヤ人会の幹部会で互いに別れの挨拶をして、自分の診察室のドアに「しばらく不在」の表示を出し職場を後にした。彼が隠れ家に選んだのは、セント・ジョセフ病院の産院棟の個室だった。もちろん仮名だった。ユダヤ人逮捕の情報が流れてから、この街の多くの病院が“隠れ家”になっていた。午後、家族から連絡を受けたマイヤー博士は「しばらくここで隠れていて、皆がスウェーデンに脱出できたのを確認して、そちらへ渡る」と伝えた。

アドルフ・マイヤー医師    Countrymen
 
9月30日の朝、ホノヴオとマルクスの二つの家族8人はコペンハーゲン中央駅を出発しノイカービン駅に午前11時に到着した。ところが知人の警官が紹介してくれた男は、当初の計画はうまく行かなかったと言う。彼は別の心当たりがあるので、ここでしばらく待ってほしいと言い汽車で出かけた。一行は重い荷物を引きずって、ホテルへ向かう。そこで食事をしていると、ドイツ兵がやってきて、駅長と話しはじめた。ホノヴオはこれはまずいと思い、急いで駅に引き返した。
 
しばらくすると、男が戻ってきたが、ダメだったと言う。しかし、20キロ離れたところにつてがあるので、と言い車で出かけた。ホノヴオはこの男に頼って大丈夫なのだろか、と不安になった。4人のこどもたちは疲れ果て、あたりは暗くなりはじめていた。ホテルに泊まるのは危険だ。となると、なにか代案はあるだろうか。突然、ホノヴオは前の晩に、隣人が妻に「明日、フォルスタ地方にいる兄のところに狩りに行くので、なにかお役に立てることがあればご連絡ください」と言った言葉を思い出した。
 
その隣人に電話をかけると「兄の農家はせまい所ですが、どうぞお出でください」と言ってくれた。男が帰ってきて、スウェーデンに渡る漁船はないという。夜8時以降、タクシーが走るのは禁止されている。急がねばならない。二つの家族8人は、大型バンを手配し30キロ離れた小さな農場へ向かった。彼らは温かく迎えられた。家は小さかった。農場の夫妻オ―ゲ・ペトルソンは自分たちの寝室を提供してくれた。難民になった8人はおかげで一夜を過ごすことができた。
 
10月1日、彼らは翌日のハンティングの午餐にも招かれた。親切が身に染みたが、心ここにあらずだった。食事の途中で漁船が確保できそうだという電話が入った。ホノヴオは見知らぬ家族を泊めてくれた夫妻にお礼をしようとしたが、「ここは戦争の影響をほとんど受けていない。だから、皆さんを助けることが出来てうれしい」と言い、カネは受け取らなかった。ホノヴオは車を確保して、30キロ先の指定の港町ヘスナシュへ向かう。しかし、漁船はあるが船長の体調が悪いので出航できないという。その日、脱出する希望はなくなった。
 
ホノヴオは近くの夏のキャンプ場に小屋があることを聞き、家族はそこへ急ぐ。窓を破り中にはいると、水もトイレもなく、ベッドにはマットレスもなかった。こどもたちのために大人のコートを敷きその代わりにし、昼間、農家で手に入れたサンドイッチをローソクの灯の下で食べた。4人のこどもは安眠したが、大人は寝られず煙草ばかり吸っていた。

スウェーデンへ脱出する船に乗りこむユダヤ人難民 
Museum of  Danish  Resistance
 
その頃、ゲシュタポのユダヤ人刈り作戦がはじまっていた。コペンハーゲンの警察本部はその夜の出来事を日誌に記録している。ドイツ兵をのせた軍用車が街中を走り、市内の要所に監視兵が配置され、電話線を切断し、ゲシュタポが逮捕したユダヤ系市民をトラックに載せる、港には彼らを移送する貨物船ヴァテランドが待機している。また、この日誌には3度にわたり、ドイツの作戦に警官はけっして協力してはならない、と分署への指示が出されている。警官の多くは、協力どころかユダヤ市民の脱出に手をかしていた。
 
午後8時にはじまった作戦は、深夜1時に完了した。ゲシュタポはデンマークのユダヤ系市民数を6000人と推定し、できるだけ多くの逮捕をもくろんでいたが、結果はわずか300人だった。警告をうけた彼らは自宅から逃げだし隠れてしまったのだ。ゲシュタポは家のドアを破って侵入することを禁じられていたので、ドアを開けずに助かった者もいた。逮捕された人々は、軍用車で港に運ばれ貨物船のタラップを急き立てられて登っていった。そのなかには90歳の老人もいた、船上には、デンマーク人のゲシュタポ幹部がいた。彼は、ひとりずつ身元を確認し、指示にしたがって半ユダヤ人(両親のひとりがユダヤ人)と外国人と結婚しているユダヤ人100人を釈放した。
 
10月2日午前10時 収容能力5000人のヴァテランド号は、200人のユダヤ人と監獄に収容されていた共産党員150人を乗せて、チェコにある死の収容所への中継キャンプ・テレシェンスタトに向かって出発した。
 
ベストは前夜の作戦の報告書をベルリンのリッベントロップ外相へ送った。それには貨物船で輸送したユダヤ人の数は明記せずに「作戦は成功した。本日をもってデンマークはユダヤ人のいない国になった」、「ユダヤ人を助けたデンマーク人には厳罰が科せられるとの声明がでる」と書いている。しかし、その声明は出されていない。
 
その日の朝、スウェーデン外務省にドイツ船がユダヤ人を運んでいるとの報告が入った。外務大臣はドイツ公使を呼び、それへの抗議を表明しスウェーデン政府は彼らを受け入れる用意があると言った。公使は、これはドイツとデンマークの間の問題であるとして拒否した。
 
戦局がドイツに不利になりつつあるその当時、中立国スウェーデンはナチス・ドイツと距離を置きはじめていた。連合国からの圧力で、8月に、重要戦争物資である鉄鉱石のドイツへの輸出を制限し、占領下にある隣国ノルウェーへのドイツ兵の鉄道輸送の協定を破棄していた。そうしてもヒトラーが怒って侵略する余力はないと考えたのだ。その日の午後8時、スェーデン外務省のスポークスマンがグランド・ホテルで記者会見を開き内外のジャーナリストに「スェーデン政府はすべてのデンマークのユダヤ系市民を受け入れる」と宣言した。デンマークで隠れている人々にとって、これは希望のメセッージだった。このニュースをマイヤー医師もラヂオで聴いていた。
 
夏のキャンプ場の小屋で惨めな夜を過ごしたホノヴオとマルクスの家族は、翌日の10月2日、10キロ離れたストウべカーベンに車で到着した。危険だったが、空腹をいやすために街のホテルのレストランで朝食をとった。全員が2つの目玉焼きを注文したとホノヴオの妻キスは記している。食堂で一息ついていると、ラジオがユダヤ人追放のニュースを伝えていた。噂がついに現実になったことを、ホノヴオは知る。ホテルの主も従業員もみな彼らの味方だったが、いつゲシュタポが踏み込んでくるか分からない。望みは町の有力者が紹介してくれた漁船だったが、それも船長の妻の反対で消えた。
 
ホノヴオはホテルの部屋で茫然としていた。そのとき、ホテル滞在中の脱走希望者が集まっているので急いできてほしいと連絡があった。その部屋には多くの人がいた。一人の男が立ち上がり「自分はドイツ軍のお尋ね者だから、名前は明かせない。今晩、7時半にググロンスンドの波止場からスウェーデン行の船がでる。希望者は現地に集まってくれ」と言った。代金はひとり1200クローナ(労働者の平均年収の3割)かかるという。ホノヴオはその男はすこし胡散臭いと思ったが、選択の余地はない。車が確保できなかった二つの家族は、午後2時すぎ7キロ先の波止場へ歩きはじめた。その直後、密告を受けたゲシュタポがホテルに駆けつけたが、もぬけの殻だった。
 
波止場への道中、こどもと母親は森の中で休みホノヴオとマルクスは波止場へ向かった。そこには、名を明かさない男とその妻が待っていた。男は事務的に集合場所と待機するまでの隠れ場所を告げた。そのとき船長が現れホノヴオは希望者21人分の船賃を渡した。
 
別れ際に男は「こどもたちは大丈夫か」と尋ねたので、ホノヴオは「二人の小さなこどもは歩くのは遅いが大丈夫だ」 と答えると、「それじゃ迎えに行きましょう」と男の妻が言い二人は自転車で走っていった。彼は感動して涙をこぼした。立派な人だった。午後7時半、21人の脱出者を乗せた漁船がグロンスンドの波止場を出航した。
 
スウェーデンへ向かう小さな漁船は満員だった。ドイツの監視船と機雷に怯えながら船はバルチック海を進む。そのうち強風で揺れが激しくなり、ほとんどの人が吐いた。暴風で船は進路を外れ位置がわからなくなった。ドイツの島が見えてきて、慌てて進路を変えて北に向かう。波止場を出発して11時間後の10月4日朝、やっとスェーデンの南端の町イスタッドの港に辿り着いた。ホノヴオはその時の光景を次のように記している「みんな涙を流していた。スウェーデン兵はドイツの軍服に似たものを着ていたが、彼らは握手を求め‘ようこそ’と笑顔で歓迎してくれた。
 
スウェーデン到着後のホノヴオ一家                  Countrymen
 
漁船でユダヤ人を運ぶことは大きいリスクを抱えていた。利益は大きいかもしれないが、ドイツ軍に逮捕され船を没収され、狙撃され沈没する可能性もあった。その時点では、どれほど危険なのかは、誰も分からなかった。それは、ユダヤ人を匿ったデンマーク市民も同様だった。それでも、ごく少数の例外を除いて、彼らは危険を無視して彼らを助けている。
 
逃亡ルートがはじめからあったわけではない。彼らには組織もネットワークも体験もなかった。あったのは市民のイニシアチーブと自発的と創意工夫だけだった。その中でも目覚ましい活躍をしたのは、コペンハーゲンの北にあるリンビィの町のグループだった。彼らは1000人のユダヤ人市民をひとり残さずスウェーデンに送りこんでいる。そのグループのリーダー、バトルソンはその著書で、ユダヤ人狩りを知った夜に開いた会合を回想している。「われわれには、彼らを助ける手段はなにもなかった。海岸の地理も知らず、漁船長とのコネクションも資金もなかった。協力を得られるのは警官だけだった。世界で最も残酷で組織化された警察ゲシュタポと対抗する手段は、迫害されている人々を救うという意思だけだった。われわれはそのために団結して事に当たった」
 
そのグループはあらゆる職種の市民の集まりで、中心になったのは医者と学生だった。ほとんどの病院が集結場所になり、医者と看護婦は難民の救援活動に参加した。学生は彼らを隠れ家から安全な場所に移し、船着き場で待機する船まで案内するという重要な役割を果たした。
 
10月6日、マイヤー医師はコペンハーゲンの北60キロにあるジレライユという漁村に隠れていた。前夜の隠れ家では数時間しか眠っていない。マイヤーと義理の妹メリーは、ここが確実なスウェーデンへの脱出ルートだと聞きやってきたのだった。彼らを含め12人を匿っているのは、農場主オルソン夫人だった。彼らは家畜舎の屋根裏で息をひそめて、船の到着を待っていた。
 
ユダヤ人難民の間にジレライユの脱出ルートは確実だとの噂が広がり、600人がこの世帯600の村に押し寄せてきた。人口1700の村はその対応におおわらわとなった。多くの村人が自宅で彼らを匿った。その朝、大型スクーナー(機帆船)フリユビィヤーグ号が波止場に到着し、12時半にスウェーデンに向けて出港するとのニュースが流れると、たちまち避難者が波止場に溢れ大混乱になった。彼らが先を争って乗船する中、突然「ゲシュタポがやってくるぞ」という叫び声が聞こえた。船長は慌てて収容を打ち切り200人を乗せて出航した。しかし‘ゲシュタポ来る’はデマだった。スクーナーは4-500人を収容できたから罪作りな誤報だった。マイヤーが波止場に駆けつけたときは、船の姿はなかった。
 
ゲシュタポに逮捕されるデンマークのユダヤ系市民   Museum of Danish Resistance
 
午後11時ゲシュタポの一隊が村にやってきた。隊長のジュンは徹底的なユダヤ人狩りを決意していた。‘ゲシュタポ来る’のニュースはすぐに村中に知れわたり、家畜舎のワラの寝床に横たわっていたマイヤーもそれを知った。彼はゲシュタポに逮捕されるくらいなら、自殺する覚悟だった。彼は日記に次のように書いている。「今日は時間がゆっくり流れる。わたしは疲れていた。みんな神経質になっていたが、おどろくほど冷静だった。わたしの手元にはモルヒネが入った注射器が置いてあった。メリーにゲシュタポが来たらまず彼女に注射してそのあと自分にする、と約束していた」
 
ゲシュタポは村の家をしらみつぶしに捜査していた。マイヤーが隠れている家畜舎の隣家に彼らは入ったが、オルソン夫人の農家のドアは叩かなかった。これでマイヤーは命拾いをした。朝3時、ゲシュタポと応援のドイツ兵が教会を包囲。ゲシュタポ隊長のジュンは墓堀人を銃で脅し教会のカギを手に入れ、聖なる建物に侵入し裏部屋に隠れていた85人を逮捕した。その夜の逮捕者の総数は107人にのぼった。
 
ユダヤ人であるという理由だけで、市民の権利を剥奪され迫害される光景を目撃した村の人々はナチスの犯罪に怒り、残された難民を守る決意をする。その日の早朝、家具職人、教師、野菜店主、医師、警官など10人の村人が「ユダヤ委員会」を結成した。彼らは、難民を安全な場所へ移動し、食糧の確保、船の手配、船賃の交渉、船賃のない難民への募金をはじめた。「村の名誉にかけて同胞を守ろうと思った」と委員会のひとりは後に語っている。デンマークの他の場所でもこの村と同じように無名の市民が立ち上がっていた。
 
午前7時、オルセン夫人に匿われていたマイヤー医師とその仲間は、車に乗って安全な場所に移動した。12人の難民は、夏の別荘で温かい食事をし,ベッドとカウチで寝ることができた。10月8日の午後7時、「ユダヤ委員会」の手配で、12人は隠れ家から5キロ離れた波止場に着いた。沖には大型スクーナーが停泊していた。彼らは若者が漕ぐボートでそこまで行きタラップを登った。124人の難民をのせたスクーナー・ヤン号は午後8時に出港し、11時半にスウェーデンのヒュガネスの町に到着した。マイヤーは日記に「到着したわれわれはデンマークとスウェーデン国歌を斉唱した。われわれは救われた」と書いている。
 
デンマークのユダヤ系市民のスウェーデンへの脱出劇は9月27日にはじまり10月末まで続いた。スウェーデン海軍と警察の記録によると、総数は7742人である。ゲシュタポに逮捕され収容所送りになったユダヤ市民は472人だったが、そのほぼ全員が生還している。それはデンマーク政府が執拗にナチス・ドイツ政府に収容所のデンマーク市民の安全確保を要求した結果でもあった。
 
ドイツ全権代表ベスト         親衛隊中佐アイヒマン
Gyldenda                 Wikipedia
 
ヒトラー親衛隊の高官ベストがゲショタポのユダヤ人逮捕の情報を事前にリークした動機は何だろう。彼は、わずか300人のユダヤ人逮捕だけで作戦は成功とベルリンに報告したが、本部はこれを納得したのだろうか。10月1日の深夜のユダヤ人狩りのあとなぜ徹底的な追跡をやらなかったのだろう。
 
これらへの答えは、ベストに与えられたユダヤ人追放とモデル占領国の維持という二つの矛盾した任務にある、と『同胞たち』の著者リンデガードは言う。ベストは「ユダヤ人問題の解決」というヒトラーの至上命令を遂行しなくてはならない、同時にそれがきっかけになって、デンマーク人が反乱を起こし統治できなくなるという事態を避けなくてはならなかった。そこで、彼はベルリンを欺く高等作戦にでた。9月初旬に、本部に催促される前にユダヤ人逮捕を進言したのも、その一環である。高等作戦を展開するには、ヒトラーとヒムラーへの忠誠心を示さなくてはならない、と考えたのだ。これで、ゲシュタポに先んじてイニシアチーブをとれるとの計算もあった。
 
ベストは用心深い策士であった。そしてナチスの官僚機構を生き残る術を知っていた。例えば、彼はユダヤ人逮捕のタイミングに合わせて、デンマーク世論を懐柔するために戒厳令直後に拘束したデンマーク人将兵の釈放をしている。彼は「これが成功しデンマークはまったく平穏だ」と10月2日のベルリンへの報告書に書き、自分が正しかったことを強調している。また同じ報告書の中に、ユダヤ人逮捕の準備と並行して、デンマークと第三帝国への食糧供給の貿易交渉を進めてきたが、それが有利な条件で妥結したことにも触れている。これは、自分はベルリンの期待に応えて仕事をしている、とのメッセージだろう。
 
しかし、ベルリンのヒムラー長官の国家保安本部の幹部のなかには、なぜベストは逃亡したユダヤ人を追跡して逮捕しないのか、と疑問を抱く者もいた。ベストは10月5日の本部への報告書で、その命令権は現地のゲシュタポ司令官に属すと言い、デンマークの海岸線はあまりに長く捜索困難だと反論している。そして、「デンマークからユダヤ人を排斥するという目的は達成されている」「いまや、デンマークはユダヤ人がいない国になった」「彼らはこの国で暮すことも、行動することもできない」と持論を展開している。
 
逃亡したユダヤ人の大掛かりな追跡がなかった背景には、ゲシュタポ司令官ミルドナーが熱心になれない理由があった。というのも、10月1日以降、彼はデンマーク警察と協力関係強化の交渉を行っていたからだ。警察はユダヤ市民に同情的だったから、ユダヤ人狩りをこれ以上すると、協力を得られなくなるというジレンマがあった。ドイツ国防軍の兵士もドイツ警察官も、逃亡するユダヤ人を見て見ぬふりだった。だから、ゲシュタポ隊長ジュンのジレライユ村の教会での大量逮捕は例外的なケースだと言える。
 
全権代表のベストにとって、引き続きデンマーク政府の協力を得ることのほうが、ユダヤ人絶滅作戦を遂行するより重要だったのだ。ミルドナーも同じ考えだった。当時二人は、この戦争でドイツに勝ち目はない、と思っていたようだ。だから連合軍による戦犯裁判でユダヤ人をどう扱ったかが問題になったとき、有利になるようにとの計算が働いたとも考えられる。
 
デンマークからスウェーデンへの脱出ルート  Jewish Virtual Library
 
10月12日、スウェーデン南部の都市マルメのドイツ領事から、ベルリンの外務省に調査報告書が届く。その報告書には6000人のユダヤ人がスウェーデンへ逃げてきたとあった。その数におどろいた外務省と親衛隊本部は調査を開始する。ベルリンはベストに説明を求めるが、彼は自分に責任はない、目的は達成できたではないか、と前述の主張を繰り返す。
 
しかし、事態は一変する。ベストがデンマーク政府に ‘半ユダヤ人(両親のいずれかがユダヤ人)と外国人と結婚しているユダヤ人は逮捕しない’と10月5日に文書でデンマーク政府に約束をしたことが発覚したからだ。ユダヤ課長のアイヒマンはその越権行為に怒り、ベストに説明を求めた。ベストはそれは事実であると告白する。親衛隊本部は直ちに彼をベルリンへ召喚した。ベストは事態の悪化を防ぐための、やむを得ない緊急措置だったと言い訳をする。11月2日,アイヒマンはこの事件の決着をつけるために、コペンハーゲンに飛ぶ。ベストとミルドナーをふくむ関係者から事情聴取をしたアイヒマンは、おどろくべき結論をだした。
 
その内容は以下3点だった。①60歳以上のユダヤ人は逮捕、移送しない②すでに逮捕され収容所へ移送されている半ユダヤ人と外国人と結婚しているユダヤ人は釈放しデンマークへ送還する③デンマークから移送されたすべてのユダヤ人は、テレジエンシュタト収容所に留まり、そこをデンマーク政府と赤十字の代表が訪問できる。最後の項目はとくに重要だった。チェコにあったその収容所は死のキャンプへユダヤ人を送る中継地で待遇は苛酷ではなかったので、囚人は生き延びることができた。
 
これを読むと、ベストはアイヒマンの説得に成功し、彼の主張がすべて受け入れられていることが分る。アイヒマンはなぜデンマークのユダヤ人の特別扱いを許したのか。彼は関係者から現地の事情を聞き、ユダヤ人絶滅の原則にこだわるより、この際、妥協してデンマークとの協力関係を維持したほうが良いと判断したのだろう。ベストの判断とまったく同じだった。これでベストの地位は安泰になり、第三帝国の敗北まで全権代表を続ける。
 
ナチス幹部がデンマークでのユダヤ人絶滅作戦をためらった最大の理由は、デンマーク人の怒りが爆発することへの懸念だった。彼らは人種差別を憎悪し、同じデンマーク市民であるユダヤ人迫害に怒っていた。これは、国王から庶民までの強い共通感情だったから、国民が一体になって、危険をかえりみずユダヤ系市民の脱出を助けた。彼らはナチスのユダヤ人狩りを見て見ぬふりはしなかった。その結果、犠牲者はわずかユダヤ人口の数%であった。
 
他の被占領国でのユダヤ人犠牲者の数は大きかった。ポーランド、バルト諸国ではユダヤ人口の90%、ギリシア、オランダ、ハンガリーでは70-80%、ベルギー、ウクライナ、ユーゴスロビアでは60%、フランス、イタリアでは20%が銃弾とガス室で殺害されている。
 
ホロコストの歴史のなかで、デンマーク市民が示した勇気は特筆に値する。
 
デンマーク解放の日 1945年5月5日 コペンハーゲン 
National Museum of Denmark 
 
戦時中、マイヤー医師はスウェーデン第二の都市ヨッテボリの郊外にある従兄弟の別荘で暮らした。その家は大きかったので、双子の娘の家族も一緒に生活することができた。こどもたちは、そこから学校に通った。マイヤーはスウェーデンに逃れてきた各国の難民のための医療活動に携わった。
 
ホノヴオはスウェーデンの大手企業アセアで働きながら、デンマーク難民のボランティア組織「デンマーク旅団」に参加し軍事訓練を受けた。祖国解放の日が迫ると、彼は旅団の一員としてコペンハーゲンに上陸したが、ドイツ占領軍は降伏したので、戦闘はなかった。ホノヴオの家は、隣人と友人のおかげで以前とまったく同じ状態に保たれていた。彼の家だけではなく、帰国したユダヤ系市民の家は、デンマーク政府の方針でしっかり管理されていた。他の占領諸国では、ナチスが没収、売却し、他人が住む例が多かったが、デンマークではそれが起こっていない。
 
べストは戦後逮捕され、ニュ―ルンベルグ裁判で連合軍側の証人として証言台に立った。1948年、デンマーク地方裁判所は、彼に死刑判決を下した。裁判中、彼はユダヤ人救済のために尽力したことを強調し‘よきナチ党員’であることを証明しようとしたが拒絶された。占領下のデンマーク首相スカヴェ二ウスの弁護も役に立たなかった。翌年、最高裁判所はユダヤ人迫害については無罪としたが、一連の市民殺害の罪で禁固12年の判決を下した。しかし、2年後に恩赦を受け釈放された。ドイツに戻った彼は大企業の弁護士となった。1969年、彼は戦時のポーランド人一万殺害の戦争犯罪容疑で起訴されたが、健康状態を理由に裁判をまぬがれた。1989年、彼は死亡した。
 
ドゥクウィッツは1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件に関与していたが、同僚のカンスタインともに逮捕をまぬがれた。戦後、彼はデンマーク人の間でユダヤ人を救った勇気あるドイツ人として称賛された。ベストが裁判にかけられたとき彼は昔のボスを弁護し、それは生涯変わらなかった。50年代のはじめ西ドイツ外務省に入り、外交官としてのキャリアを歩む。1955年、ドゥクウィッツは戦後初のデンマーク大使に任命され、4年間、両国関係のために仕事をする。その後、ウィリー・ブラント外務大臣の次官(1967-70年)として、東方外交に深く関わった。1970年のドイツ・ポーラン国境条約はその成果であった。1973年、彼が亡くなったとき当時首相であったブラントは、ドゥクウィッツのヒューマ二ズムと誠意と決意を称えている。
 
デンマーク国王クリスチャン10世は、ナチス・ドイツが降伏しデンマークが独立を取り戻した1945年5月5日、立憲君主として直ちに議会を招集した。その日、76歳の国王への国民の敬愛の念は最高潮に達した。その解放の日、アマリエンボー宮殿を訪れた前首相スカヴェ二ウスに国王は「われわれが達成したのは、結局、コペンハーゲンを空爆から守り、国土が破壊されることを防いだことだったね」と言った。‘結局’には、ナチスと一戦を交えず降伏し名誉は失ったが、市民(ユダヤ系市民も含め)を守ったという誇りが込められていたのだろう。
 
 
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著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

フリー・ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て
「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。