2014.10.16 thu

パリは燃えているか? ~フランス田舎暮らし(37)~

パリは燃えているか? ~フランス田舎暮らし(37)~


土野繁樹
 

パリの象徴 エッフェル塔     Wikipedia

 
今年の夏は4年間にわたるナチスの占領下にあったパリが、ドゴール将軍の自由フランス軍と米軍によって解放された70年目の年だった。当地のメディアはパリ解放特集を組んでいた。フランス人は誰も、1944年8月25日を屈辱的な占領が終わり、自由が戻ってきた日として記憶している。
 
パリ解放のドラマは、次になにが起こるか分からないスリリングなことの連続だった。なかでも、ヒトラーの「パリを焦土にせよ」との命令が実行されていたら、エッフェル塔、ノートルダム大聖堂、ルーヴル美術館、凱旋門もこの世から消えていただろう。それを思うと背筋が寒くなる。この大悲劇はドイツ占領軍のパリ司令官フランツ・フォン・コルティッツと中立国のスウェーデン外交官ラウル・ノルドリンクの必死の努力で、紙一重の差でまぬがれた。今回のエッセーでは、光の都を救った二人のことを中心に、パリ解放のドラマの一端を再現してみょう。
 
『パリは燃えているか?』(Is Paris burning?)(1965年、志摩隆訳 早川書房)というドキュメンタリー作品をご存じだろうか。20世紀ノンフィクションの傑作と言われる作品で、1000万部が売れ、仏米共同製作の映画も当たった。作者は当時、ニューズウィーク・パリ支局長のラリー・コリンズ(米国人)とパリ・マッチ誌記者のドミニク・ラピエール(フランス人)。この本は二人の敏腕ジャーナリストが、3年かけて徹底的な調査・取材をして執筆した作品である。仏独米英の膨大な軍事記録を調べ、関係者800人(そのうち500人の証言を使っている)を取材しているが、彼らのファクトへのこだわりは凄い。たとえば、1960年初めに、二人はドイツのバーデン・バーデンのフォン・コルティッツを訪ね、たっぷり2週間かけて事実関係を確かめ、当時の彼の心境を聞きだしている。それを彼の部下、同僚から裏をとり、さらにノルドリンクに確認している。このコラムを書くために、筆者はこの本を再々読したが、はじめて読んだときと同じ興奮と感動を覚えた。
 

映画『外交官』(2014)               Gaumont

 
今春公開され評判になった映画に『DIPLOMATIE(外交官)』がある。パリを救ったドイツ軍人とスウェーデン外交官の迫真のやりとりをテーマにした秀作だ。ベルリン映画祭で特別賞をとった仏独共同製作作品で、監督はドイツ人のフォルカー・シュレンドルフ。ドイツ生まれの彼は、11歳のときに両親とともにパリに移住しソルボンヌ大学と映画学校FEMISで学んだ。主要作品にオスカーを受賞した『ブリキの太鼓』(1979年)(ドイツの作家ギュンター・グラスの小説の映画化)がある。
 
『外交官』の冒頭シーンは強烈だ。ベートーベンの交響曲7番が流れるなか、パリ解放の数週間前に、ドイツ軍の猛攻撃で廃墟と化したワルシャワの街の記録映画が写しだされる。瓦礫の山となったポーランドの首都の姿は、明日のパリを暗示する。
 
スウェーデン総領事ノルドリンクが、リヴォリ街にある高級ホテル・ムーリスの最上階にある、ドイツ軍パリ司令官フォン・コルティッツの執務室に突然入ってくる。二人はフランス人政治犯釈放の交渉で何度も顔を合わせていたので、初対面ではなかったが、司令官は驚き「この厳重警戒の部屋にどうして入ってきた?」と言うと、総領事は「19世紀にナポレオン3世が愛人に会うために作った秘密の階段を登ってきたよ」と答える。時は1944年8月24日の深夜だった。それから、25日の明け方までパリの運命を決める二人の激しいやりとりが交わされる。
 
この日すでに、ベルリンから派遣された爆破班が、パリの歴史的建造物、主要駅、すべての橋に爆薬を仕掛け終わりフォン・コルティッツの命令を待っている状況であった。司令官は「45の橋が爆破されると、セーヌ川が氾濫しパリは水没するだろう」と報告を受ける。パリ破壊のときが刻々と迫っているのを知ったノルドリンクは、司令官を説得するために密かにルーヴル博物館に近い司令部があるホテルにやってきたのだった。彼は必死に司令官の良心と理性に訴える。
 
ノルドリンクは「米軍はもうパリの郊外に迫っている。パリを破壊してもなんの軍事的利点はないではないか、美しいパリの歴史的遺産を地上から消し去り、罪もない市民を犠牲にすることにあなたの良心は咎めないのか」と訴えるが、フォン・コルティッツは断固拒否する。
 
「自分は軍人だ。父も祖父もそうだった。自分は、これまで命令に背いたことは一度もない。わたしは軍人としての義務を果たす。あなたは、パリ市民の犠牲というが、連合軍のベルリン空爆でドイツの女、子供が殺されているではないか。同じことだ。おひきとり願う」
 
ノルドリンクが「わたしはあなたに失望した」と言い肩を落とし部屋を去ろうとしたとき、司令官は突然激しく咳こむ。持病の喘息が再発したのだ。「薬をと」頼む彼にそれを渡し助ける。しばらくして、回復した司令官にノルドリンクは語りかける。「将来、あなたは旅行者としてこのバルコニーに立って、パリの街を見ながら“自分はすべての建物を破壊することができた。しかし、人類の遺産として残した”と言うことができる。それは、あなたにとって、すべての征服の栄光より価値あることだと思わないか」
 
司令官は長い間、沈黙したままだった。そして、静かな声で「あなたは義務をよく果たした。わたしもドイツの将軍として、同じように義務を果たさなくてはならない」と言ったあと胸の内を話はじめる。「わたしは、ラステンブルグの森にある最高司令部‘狼の巣’でヒトラーに会い、パリ司令官に任命された。その日の彼はやつれ果て、顔面蒼白で、目は血走りわめき散らすだけで、これが心服していたわが総統かと思った。その後、ヒトラーが出した‘親族連座法’を知っているか。総統の命令に従わない将官は家族も同罪として処罰するという法律だ。”パリを破壊せよ”と命じられているわたしがそれに従わないと、妻も子供も逮捕され収容所送りになり処刑されるかもしれないのだ」
 
ノルドリィンクは最後の説得を試みる。
 
「この戦争はドイツに勝ち目はない。あなたは、この美しい街を焦土にした男として歴史に名を刻まれることになる。それでも狂ったヒトラーの命令に従うのか。戦後、その蛮行でドイツ人は烙印を押され誰も相手にしなくなるだろう。あなたの家族の救出はわたしのルートを使い責任をもってやる。パリはあなたに感謝するだろう」
 
フォン・コルティッツの心は揺れる。その時すでに東の空は明るくなり、彼の執務室のバルコニーからエッフェル塔が見えていた。司令官はホテルの屋上に上がり、無線を使ってナポレオンの墓があるアンヴァリッド傷兵院の地下で、爆破指令がくるのを待っていた隊長に作戦中止命令をだした。パリは救われた。
 
二人の俳優が演じるドラマは、気鋭のシナリオライター、シリル・ジェリが脚本を書き2年前に舞台で上演され評判になり、それをシュレンドルフ監督が映画にしたものだ。ニルス・アウスロプ (外交官役)とアンドレ・デュソリエ(司令官役)は舞台でも共演しているが、その演技は圧倒的迫力がある。監督は「この映画で破局を防いだ外交の力を描きたかった」と言っている。『外交官』は、8月24の深夜から翌朝までの将軍と外交官の対決と説得と選択に焦点をあてたドラマだが、優れたフィクションは、半端なノンフィクションより歴史の真実に迫ることができるという好例だろう。映画を見終えて、筆者は’歴史は人がつくるもの’との思いを強くした。
 


フォン・コルティッツ将軍   Wikipedia
  
ノルドリンク総領事    Wikipedia

 
『パリは燃えているか?』を読むと映画のシーン、会話はほぼこの本からとったことがわかる。例えば、スウェーデン総領事が、司令官に「将来、あなたは旅行者としてこのバルコニーに立って・・・」と語る場面は、実際には8月16日に、パリ爆破計画を知ったパリ市長が司令官を訪れたときの言葉だった。喘息の場面も司令官の拒否の言葉「軍人としての義務を果たす」も創作ではない。
 
世界一美しい都市がヒトラーから‘死刑宣告’を受け、どんな経過を経てその破局が回避されたかを、この本は詳細かつ鮮明に再現しているのだが、ここではその一部を紹介しよう。
 
8月7日
ヒトラーがフォン・コルティッツをパリ司令官に任命した。その理由は彼の忠誠心だった。7月20日に軍幹部によるヒトラー暗殺未遂事件があり、疑心暗鬼になっていた総統の側近は「どんな苛酷な命令でも、いちども命令に逆らったことのない男」を推薦したのだった。彼はオランダ・ロッテルダムの無差別爆撃の命令を遂行し死傷者多数、被災者8万人をだし、クリミヤ半島セバストポリのユダヤ人虐殺の命令に従って約3万人の殺害に加担している。
 
8月15日
フォン・コルティッツは‘全パリ工業施設の破壊もしくは完全な麻痺’を求める作戦準備命令をドイツ軍最高司令部から受け取った。破壊リストのなかには、ガス、電力、水道施設も入っていた。その時点では、連合軍の爆撃機がドイツの諸都市を火の海にしていたので、この指令は当然のことと彼は考えていた。
 
同じ日、司令官はホテル・ムーリスにベルリンから派遣された4人の技師を迎えている。
彼らはパリの工業施設破壊の準備と監督の任務を帯び、フォン・コルティッツが手配したホテルの部屋に陣取り地図と青写真に夢中になっていた。技師長は「少なくとも、6か月間はパリを完全にマヒできる」と司令官に報告した。
 
8月21日
ホテル・ムーリスの赤い絨毯をしきつめた廊下でいらいらしたようすで総司令官を待っている男がいた。第813工兵中隊のヴェルナー・エーベルナッハ大尉だった。彼の部下は6日間の作業で、パリ市内のいたるところに爆薬を仕掛けていた。大尉は部下にエッフェル塔爆破の準備するように命じていた。大尉は導火線に火をつける命令を司令官から受け取るために来たのだが、2時間待っても面会できなかった。その日、血気にはやる大尉が受け取ったフォン・コルティッツの命令は「準備作業を続行し、指令を待て」だった。
 
その夜、フォン・コルティッツはホテルの部屋で苦悩していた。最高司令部から与えられた破壊命令をどれひとつ実行していない。親族連座法がいま家族を脅かそうとしている。だが、ヒトラーとのあの会見を思い出すと、自分が服従を誓ってきた男は狂人ではなかろうか、との疑いがあたまから離れず、歴史はパリを破壊した男を決して許さないだろう、との思いがよぎった。彼がこの恐ろしい矛盾から脱する道はただひとつ、連合軍がパリにすぐに攻め込んでくれればこの義務から解放される。それは、降伏を意味したがそれもいたしかたない。
 
8月22日 
フォン・コルティッツはノルドリンクに至急会いたいと連絡をした。外交官が司令官の部屋に行くと、彼は「ウィスキーをいっぱいやりましょう」と言い、上着のポケットから紙をとりだした。それは、司令部からのパリ破壊命令だった。彼は、この命令に逆らい続けると自分は解任されるだろう、そうなると、パリ破壊を止めることはでききないと言った。そして、現在この命令の実行を阻止できるのは連合軍の早急な介入であると言い「これは反逆行為かも知れないが」と付け加えた。司令官は、ノルドリングに米軍将軍とコンタクトし即時介入を要請してほしいと言った。ノルドリンクはそれを引き受けた。司令官は「時間はあと1日か2日しなないでしょう」と言い、外交官の手を握りしめた。
 

パリのドイツ軍司令部 ホテル・ム―リス 1944年   Wikipedia

8月23日、
フォン・コルティッツは、参謀長から4人の親衛隊士官が面会室で待っていると知らされた。彼は「とうとう、自分を逮捕しにきたな」と思った。4人の男はハイル・ヒトラーと叫び、ゲシュタポ長官ハインリッヒ・ヒムラーの命令で来訪したと言った。司令官はこれですべてが終わったと思った。しかし、彼らの来訪の目的はルーヴル美術館に収蔵されている美術品をベルリンに届けることだった。
 
ヒトラーの総司令部は西部軍最高司令官など5司令官に以下の緊急極秘命令を発信した。「セーヌ河にかかっているパリ地区の橋の破壊を準備せよ。パリは敵の手中に渡してはならぬ。もし、敵の手中に渡すときには、パリは廃墟になっていなければならぬ」
 
スウェーデン総領事の弟ロルフ・ノルドリンク(兄が心臓発作で倒れたのでその代理)とその一行は、フォン・コルティッツが発行したドイツ軍前線を通過できる許可書を利用して米軍基地にたどりつき、オマール・ブラッドリー将軍に、ドイツの援軍が到着する前に早急にパリに入城しないとパリ破壊命令が実行されるだろう、との伝言をつたえた。将軍はそれに直ちに応じ「大至急、フランス軍第二機甲師団と米第四師団はパリへ進撃せよ」との命令を下した。
 
その日、ベルリンから到着した応援の爆破工作隊よって、ノートルダム大聖堂に3トン、アンヴァリッド寺院に2トン、下院に1トンの爆薬が仕掛けられ、オペラ座も凱旋門も吹き飛ぶ準備がされていた。
 
8月24日
ドイツ占領軍へのレジスタンスの武装蜂起から6日目。戦闘が激しくなり死傷者が続出した。その日、レジスタンスがシャンゼリゼ通りを走るドイツ軍トラックに砲火を浴びせ炎上させた。そのトラックにはパリを爆破する時限装置が積まれていた。深夜、ルクレール将軍の第二機甲師団の先遣隊が、レジスタンスが立てこもるパリ警視庁に到着した。ノートルダム大聖堂の鐘が鳴り響いた。
 
8月25日
午前9時、ルクレール将軍が率いる師団がパリに到着した。それをラジオ・アナウンサーは興奮して伝え、ヴィクトル・ユゴーの詩を朗読した“目覚めよパリ!偉大なるフランスを再興させよ!偉大なるパリを再興させよ!”。パリ中の教会の鐘が鳴り響いた。それを聞いたフォン・コルティッツは秘書に「これはわれられのために鳴っている弔鐘だ」と言った。
 
米仏軍がホテル・ムーリスに向かって進軍した。ドイツ軍は激しく抗戦し、連合軍のシャーマンタンクを破壊した。しかし、ドイツ軍はしだいに追い詰められていった。司令官は、執務室で最後の手紙を口述した。「親愛なるノルドリンク総領事閣下 本官は閣下に対し深甚なる感謝の意を表するものであります・・」
 
その頃、東プロシアにあるドイツ軍最高司令部で戦略会議が開かれていた。連合軍がパリ市内に入った、との報告を聞いたヒトラーは激怒し「パリを全滅させる命令をだし特別工作隊も派遣したが、この命令は実行されたのか」「パリは燃えているのか?」とヨードル参謀総長に聞いた。この質問に答えられる者は誰もいなかった。
 
フランス人将校、アンリ・カルシェが部下とホテルのロビーに突入した。彼は巨大なヒトラーの肖像を機関銃で粉々にした。ドイツ人将校が両手を挙げて降伏してきた。2階の会議室にいた司令官は静かに最後の瞬間を待っていた。彼は、「復讐心に燃えるヒトラーが自分に死刑執行人の役割を押し付けようとするのをついに許さなかった」「なにを怖れることなく、なにを恥じることなく歴史の審判にいまは堂々と臨むことができる」と思った
 
カルシェ中尉が二階のドアを開けると、司令官は立ち上がった。二人は自己紹介し、フォン・コルティッツは降伏した。将軍は群衆の怒号と侮辱と唾を浴び、車でルクレール将軍が待つ警視庁へ向かった。二人の将軍は降伏文書に署名し、フォン・コルティッツは前戦で抵抗するドイツ軍へ停戦命令をだした。独仏の将校のチームが命令伝達の使者となった。ドゴールがパリ市庁舎を訪れパリ解放を宣言した。

 
凱旋パレ―ド ドゴール将軍(中央)   Wikipedia

 
パリ解放の日、『パリは燃えているか?』の著者のひとりラピエールは13歳だった。彼はその歴史的な日を回想している。
 
その日、パリの街は解放者たちを一目見ようとする群衆で溢れ返っていた。わたしは、まだ危ないから外出するなという両親の言いつけに背いて、シャンゼリゼ通りに走って行った。グランパレの前に、白い星のマークをつけた米軍の戦車が停まっていた。わたしは、戦車の砲塔から出てきた、油まみれの戦闘服を着たブロンドの大男を見た。はじめて見るアメリカ人だった。

わたしは幸せと感動に包まれ、彼に向かって走っていった。その喜び、感謝、愛の気持ちを伝えたかったのだ。しかし、突然、英語をまったく話せないことに気が付いた。占領中、学校ではドイツ語を強制的に学ばされたが、英語は勉強していなかったのだ。目の前の長身の笑顔のアメリカ人を見て、突然、シェークスピアの言葉を二つ思いだし「コーン・ビーフ」と叫んだ。

彼は吹き出し、戦車の中に消え、すぐに大きなコーン・ビーフの箱をもって現れた。わたしへのプレゼントだった。なんと素晴らしい贈り物だったことか。パリの少年はもう何か月も肉を見たことがなかったのだから!その夏,肉の配給についてパリで流行ったジョークがあった。肉の量があまりに少ないので、地下鉄の切符で包めるほどだーもし切符にパンチが入っていたら、その穴からこぼれ出す。

翌日の1944年8月26日、シャンゼリゼ通りで、解放記念の凱旋パレードがあった。それは、それまで見たこともない素晴らしいスペクタクルだった。パレードの先頭に、誇り高い長身のシャルル・ドゴールのシルエットがあった。パリ市民は過去4年間、ラジオで彼の声は聞いたことはあるが、顔を見るのははじめてだった。

世界で最も美しい大通りには、200万の大群衆が集まり歓声を上げていた。ドゴールが通ると、沿道の鈴なりの観衆が「ドゴール、ドゴール」と叫んだ。少女がドゴールに花束を差し出すと、彼はそれを受けうしろの人に渡した。(スコットランド・ヘラルド紙、1994年8月17日掲載)

敬虔なカトリック信者であるドゴールは、凱旋パレードの後、ノートルダム大聖堂で行われたミサに参列し神への感謝の祈りを捧げた。

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ドイツ軍はフォン・コルティッツに反逆罪を宣告したが、裁判が長引き家族は助かった。彼は1947年に米軍の刑務所から釈放され、52年に密かにホテル・ムリールの旧執務室を訪れた。55年に将軍と外交官はパリで再会した。1962年ノルドリンクはパリで亡くなった。パリの街角にあるタブレットは「政治犯3245人の釈放を実現し、パリを救った外交官に永遠に感謝する」と刻みノルドリンクを称えている。レジオンドヌール勲章を受けたフォン・コルティッツは、1966年にドイツのバーデン・バーデンで亡くなった。葬儀には独仏軍人が参列したが、その中には、パリ解放当時のフランス軍最高司令官で、友人であったマリー・ピエール・ケー二グ将軍の姿もあった。

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『外交官』の監督シュレンドルフは「バリが焦土になっていたら、戦後の仏独和解は極めて難しかっただろう」と語っている。

 
感想をお待ちしております。

 
 

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著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

フリー・ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て
「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。