2014.06.04 wed

ノルマンディ上陸作戦の舞台裏 ~フランス田舎暮らし(34)~

ノルマンディ上陸作戦の舞台裏 ~フランス田舎暮らし(34)~


土野繁樹


ノルマンディ・オマハ海岸に上陸する米兵 Robert Cappa撮影      Wikipedia
 
70年前の1944年6月6日、ナチスを打倒するために米英カナダを中心にした連合軍が敢行したノルマンディ上陸作戦は史上最大の作戦と呼ばれる。ドワイト・アイゼンハワー最高司令官の指揮のもとに、17万6000の兵員、5000隻の艦船と輸送船の大船団、9000機の爆撃機と輸送機が投入された。この作戦は、その圧倒的な物量ではじめから連合軍の勝利は確実だった、と多くの人々は考えている。しかし、それは後知恵だろう。
 
あの日、連合軍の気象専門家の予測がはずれ英仏海峡が暴風雨になっていたら、英国情報部MI5の二重スパイの超弩級の偽情報がベルリンに探知されていたら、歴史の流れは変わっていたかもしれないのだ。
 
アイゼンハワー将軍は欧州戦線で300万人からなる連合軍を指揮していた。米軍170万、英軍とカナダ軍100万、その他フランス、ポーランド、チェッコ、ベルギー、ノルウェー、オランダの派遣軍から構成され、ノルマンディ作戦にはその半数が投入された。陸揚げされた装備と物資も巨大だったー戦車、トラック、装甲車、ジープなどの総数5万台、タンカーと貨車2万台、鉄道機関車1000台。
 
アイゼンハウワーの戦闘司令部はサザンプトン郊外のトレーラーハウス(移動住宅)に設置され、参謀たちとの会議は隣のテントで行われた。彼は5月の段階で上陸作戦は6月5,6,7日の3日間のうちに敢行することを決めていた。二つの条件(パラシュート部隊とグライダーで空輸される歩兵部隊が奇襲を成功させるための遅い月の出。早朝、海上から上陸する部隊が波打ち際に敷設された障害物が見える干潮時)が満たされるのは、この3日しかなかったからだ。
 
6月4日の朝は嵐だった。アイゼンハワーは作戦の24時間延期を決定する。6日、7日に決行できないとすると、7月まで待たなくてはならない。それまで、作戦のブリーフィングを受けている20万人が秘密を保てるのか。ドイツの偵察機とスパイがこの作戦を嗅ぎつけるにちがいない。ゆったりと構え気さくで笑みを絶やさないアイゼンハウワーも、その日は高ぶった神経を抑えるためにキャメルの煙草を4箱も吸った。嵐が続くその夜、アイゼンハワーは司令官と参謀長とともに気象専門家の報告を聴いた。天候は一時的に好転し風はおさまり、5日は晴れ6日の朝まで続くが午後には再び悪化する、という。
 
アイゼンハワーは司令官一人ひとりの意見を聴いた。英軍総司令官バーナード・モントゴメリーは6日上陸に賛成したが、成功の確率は20%あるいは50%と言う者もいた。全員が発言したあと、長い沈黙があった。アイゼンハワーは「断行すべきだ思う。もう待てないのだ。選択の余地はない」と言い6月6日のDデーが決定された。
 
Dデーの前夜、アイゼンハワーはポケットから取り出した紙にプレス・リリース用の声明を手書きで綴った。「上陸作戦は失敗し、部隊を引き上げた。わたしの攻撃決定は、入手できる最上の情報によってなされた。陸、海、空軍は勇敢かつ献身的にその任務をはたした。この作戦に関する責任はすべてわたしにある」と。
 
この使われることはなかった声明を読むと、成功は保証されていなかったことがわかる。
 

「大西洋の壁」を視察するロンメル(中央)          Wikipedia
 
パリとノルマンディの中間点にある小村ラ・ロッシュ・ギュイヨンの城館にドイツ最強のB軍集団の司令官エルヴィン・ロンメルの司令部があった。彼の指揮下50万の兵士がオランダからブルターニュにいたる1300キロの大西洋岸をコンクリートの壁とトーチカと地雷原で守りを固めていた。1943年末、ヒットラーはロンメルに沿岸の要塞「大西洋の壁」を強化し難攻不落にすることを命じ、彼はその任務に全力をつくした。「壁」の建設には何百万トンのセメントと鉄鋼が使われ50万人(ノルマンディ地方の人々など)が動員されたている。ロンメルは機雷を付けた海中障害物を50万、あらゆる種類の地雷500万個を設置し連合軍の侵攻に備えた。
 
6月4日、西部戦線の天候は強風と雨で悪く、ド―ヴァ―海峡では強風が吹きすさび、さらに悪化するとの予報が、ドイツ軍の気象責任者からロンメルの司令部に報告された。こんな悪天候では連合国の侵攻はないとロンメルは考え、以前から計画していたベルリンに出発する。激務に追われ疲労困憊していた彼は、休暇をとって妻のルーツィエ・マリアの誕生日を祝い、同時にヒットラーと会い連合軍の侵攻を撃退するための機甲師団の移動を要請するためだった。戦車部隊を移動する権限はヒットラーが握っていたので、直談判でその許可を得ようとロンメルは考えていた。
 
ベルギー国境に近いドイツ第15軍の情報部将校マイヤー中佐は、30人のスタッフを指揮して連合軍の無線連絡を24時間体制で傍受していた。彼は、1月に当時の情報部長官カナリス海軍大将から連合軍が上陸にさきだって、フランスのレジスタンス組織への連絡に使う二つの暗号を知らされていた。半年間、忍耐強く傍受を続け、6月1日に、マイヤーの特別班は第一の暗号メセッージがBBC放送の「個人的なお便り」を通じてフランス語で流されたことを探知した。その暗号はヴェルレーヌのあの有名な詩の最初の部分「秋の日の ヴィオロンの ためいきの」で、それは間もなく連合軍の上陸が開始されることをレジスタンスに告げるものだった。
 
マイヤーはその情報をテレタイプでヒットラーの総司令部へ送り、ルントシュテットの西部戦線総司令部とロンメルの司令部へ電話した。しかし、総司令部の作戦部長は警報をださなかった。その部長はルントシュテットが警報をだしたと考え、ルントシュテットは総司令部が命令をだしたと思っていた。その結果、ノルマンディの第七軍は何の手もうてなかった。
 
6月5日午後10時、マイヤーは、上陸が48時間以内行われることを伝える暗号がBBC放送で流されたことを探知した。それはヴェルレーヌの詩の後部分「身にしみて ひたすらに うら悲し」だった。メイヤーは第15軍の司令官にそれを伝え、西部戦線総司令部に電話で通報し、そこからヒットラーの総司令部へ伝えられた。しかし、その最重要情報は第7軍には伝わっていない。ヒットラーの側近がカナリス情報の信憑性を疑っていた可能性があるが、第一線に通達されなかった理由はいまだに不明である。
 

歴史を変えた二重スパイ・ガルボ        The National Archives
 
ドイツの情報部は連合軍がヨーロッパ戦線で大攻勢にでる準備をしていることを察知して、1944年1月ロンドンに送りこんだ敏腕スパイ・アラベルに、彼のスパイ網を使って、いつ、どこで上陸作戦をやるのか、情報をとるように指示した。アラベルは実は英国諜報機関MI5のスパイ・ガルボだった。(当時、人気のスウェーデンの女優の名前からとった暗号名)。養鶏学校卒の小柄で地味でやさしいスペイン人が、ノルマンディ上陸作戦に果たした役割は特筆すべきもので、MI5の公式サイトに「第二次世界大戦で最大の貢献をしたダブル・エージェント(二重スパイ)」とある。
 
MI5とガルボの「事実は小説より奇なり」を地でいくような1944年の情報戦について語る前に、彼のスパイ歴をたどってみよう。スペイン内戦でファッシズムに強い反感を抱いたフアン・プジョル(ガルボの本名)は、ヒトラーが欧州を席巻し英国が孤独な闘いを続けている1940年、マドリッドのMI5支局にコンタクトをとり、英国のためにスパイ活動をしたいと申しでる。3度も試みたが、MI5は相手にしなかった。だが、彼は諦めなかった。ドイツのスパイになり、その実績を武器にMI5で働くことを思いついた。
 
彼はマドリッドのドイツ情報部のエージェントを「自分は政府の役人で熱烈なナチス支持者だ。ロンドン出張が多いのでドイツのために情報を集めたい」と口説き、スパイの訓練を受けロンドン行を命じられる。しかし、彼はロンドンへは行かず、ポルトガルのリスボンから情報を送る。図書館で、英国の観光ガイドブック、英海軍に関する刊行物、新聞・雑誌を読んで、詳細なレポートを送り続けた。しだいに、彼はマドリッドのドイツ情報部の信頼を得るようになる。
 
しかし、彼は一度もロンドンへ行ったことがないので「グラスゴーではワイン1リッターでなんでも言うことを聞く男が何人もいる」と報告をしたことがある。スコットランドの男はウィスキー党であることを知らなかったのだ。幸い、それは気づかれなかった。
 
1942年、プジョルはMI5に再びコンタクトをとり、英国のスパイになりロンドンで活動することになる。二重スパイとなったガルボは、彼の工作指揮官のトマス・ハリスと組んで、幻のナチス・スパイ網をつくる。二人は想像力で実在していない英国に点在する27人のスパイを創りあげ、“彼らが集めた情報”をマドリッドのドイツ情報部支局に送り続けた。画家のハリスの芸術性とガルボの燃えるような創意工夫の組み合わせで書かれた、ドイツ情報部への報告と手紙は1500にも上る。

情報の内容は、事実と虚偽のカクテルだったが、しだいに、ベルリン本部で彼の評価が高くなっていく。ベルリンはガルボと27人のスパイへの支払いを続け、死亡したスパイの未亡人には年金を払っていた。その総額8万5000ポンド(現在の貨幣価値で8億円)はMI5の活動に流用されたというから、英国情報部も人が悪い。

アイゼンハワーの司令部はノルマンディの海岸を上陸地点に決めた時点で、敵をあざむくための陽動作戦に取りかかった。それは「不屈の計画」と呼ばれ、ノルウェー上陸とパ・ド・カレー上陸があると思わせる大偽装工作だった。後者にはとくに力が入れられ、ドイツ軍が最も恐れていた米軍のパットン将軍が第一軍団(兵員15万)を編成したと思わせ、ドーヴァ―海峡から侵攻するように見せかけるために、数千のニセの航空機、戦車、兵員輸送船がイングランド東南地方に配置されていた。

これらの兵器はゴム製で、計画立案者がニューヨークのパレードで、空中に浮かぶ巨大なゴム製のミッキーマウスにヒントを得たものだという。ニセの戦車なら数人でかかえられるほど軽い。これは史上最大のだまし作戦だったが、露見するとリスクも大きかった。ドイツ軍に探知されなかった大きな理由は、当時、連合軍がイングランドの制空権を完全に握っていたので、敵は偵察機を飛ばして確認することが出来なかったからだ、とMI5の元将校は語っている。
 
 

ニセ戦車                     Wikipedia
 
ドイツ情報部から上陸地点を探れと指示をうけたガルボは27人の幻のスパイを‘動員’して、毎日のように情報を送った。ノルマンディ上陸までの5ヵ月の間、500の秘密レポートがベルリンに届いたが、これはMI5が巧妙に仕組んだ罠だった。一つひとつの情報はジグソーパズルのピースで、これを合わせていくとパ・ド・カレーが浮かび上がるという情報操作をしていた。
 
英国情報機関にはもうひとつ秘密兵器があった。それは、「ウルトラ」と呼ばれるドイツ軍の暗号を解読するウルトラ・シークレット作戦である。ロンドンから80キロ離れたブレッチリー・パークの政府暗号学校で、解読不能と思われていたドイツ軍のエニグマ暗号通信などを解読して、連合軍の勝利に大きく貢献した。そこでは、天才的数学者アラン・チューニングや言語学者、チェスの名人など1万人が働き、ドイツの陸海空軍、情報部、SS(ヒトラー親衛隊)、警察の暗号通信を傍受し解読していた。

ブレッチリー・パークは緑に囲まれ池にはガチョウが泳いでいるのどかなところにあった。この優雅な田園地帯で、英国の頭脳は潜水艦Uボートの交信を解読し、連合軍の輸送船の撃沈を止め、ロンメルのアフリカ軍団の交信を解読しカイロ占領を阻止している。ウルトラの名づけの親はウィンストン・チャ―チル首相だが、ブレッチリー・パークは金の卵を産むガチョウだと言いヒトラーとの戦いに挑んだ。歴史家は、ウルトラがなければ戦争はさらに2-4年続いていたという。

ドイツ情報部は軍事施設の情報をため英国にスパイを潜入さようと何度も試みている。夜間、潜水艦やパラシュートで送りこむのだが、彼らはすべて逮捕されMI5の尋問にあった。情報将校の尋問は厳しかった。スパイであることを認めた彼らは調書にサインさせられ、48時間以内にダブル・エージェントになるか、処刑されるかの選択を迫られた。

その結果、MI5は多くの二重スパイを使って情報戦を展開することができた。英国政府は、すべての情報機関の代表で構成されるXX委員会と称する二重スパイによる作戦を指揮する組織をつくっている。XXは英語でダブルクロス、裏切りという意味である。この命名は情報戦はゲームであるという英国人の感覚からくるものだろう。

二重スパイの情報がドイツ側でどのように評価されているかは、ウルトラの通信解読で確認できるから、情報戦において英国は圧倒的に有利であった。ハリスとガルボの流す情報も、それがどれほど信用されているかを、チェックすることができたのだ。

ノルマンディ作戦が実施される一月前、MI5を動転させる事件が起きた。ドイツの情報部将校ヨハン・イエブセンがマドリッドで拉致されたのだ。彼は凄腕の二重スパイのポポフの大学以来の親友で、英国びいきの反ナチの将校だった。彼は、ドイツが送り込んだエージェントを、MI5が二重スパイにしていることを感づいていた。 そのイエブセンが英国亡命の疑いで大型トランクに入れられベルリンに連行され、ゲシュタポ本部で厳しい尋問にあう。MI5はパニック状態になった。ゲシュタポが彼を拷問し二重スパイの秘密を告発したら、XX委員会のこれまでの努力がすべて水の泡になる。パ・ド・カレー上陸情報はウソだとわかったら、その打撃は計り知れない。MI5はゲシュタポが彼の多額の金銭上の不祥事だけに関心を向けることを祈るばかりであった。幸いなにごとも起こらなかった。誰も彼の運命がどうなったかはわからない。過酷な拷問にもかかわらず、告白しなかったイエブセンは陰のヒーロだった。 

ノルマンディ上陸の前日の6月5日、ガルボはベルリンに翌日の午前3時に緊急メセッージを送ると通告するが、無線技士がその時間に待機しておらず、5時間遅れで「サザンプトンのスパイによると兵士が装具を携えて集合している。侵攻作戦がはじまったようだ」との情報が伝わった。すでにその時点では、ノルマンディ上陸作戦は始まっていたのだが、その正確な情報でベルリンの司令部でのガルボの株があがった。ガルボはマドリッドの工作指揮官に「せっかくの重要情報がこんなに遅れてしまつた。なんたる怠慢だ。わたしに信念がなければ、この仕事は放りすところだ」と抗議をした。

上陸から3日後、ガルボは最も重要なメッセージをベルリンに送る。パットンの第一軍団はまだイングランド東南地方にいる、英国にはまだ50個師団が駐屯している、ノルマンディ上陸の目的はパ・ド・カレー侵攻から注意をそらせるためだ、このメセッージを緊急に最高司令部に伝えてほしいとか書かれてあった。

ヒトラーはこの情報を信じた。その結果、ドイツ軍は8月までパ・ド・カレー防衛のために2つの機甲師団と19の歩兵師団を配置し続けた。ロンメルは西部戦線最高司令官ルントシュテットに、ノルマンディ防衛のために戦車部隊を移動してほしいと要請したが、拒否されている。その結果、ロンメルは戦車で連合軍を阻止反撃できなかった(ロンメルはノルマンディ上陸の報をベルリンの自宅で知り、すぐに前線に向かったのでヒトラーには会っていない)。MI5と二重スパイのおかげで、連合軍はノルマンディを前進拠点にして8月はじめまでに145万の将兵を上陸させることに成功し、ヨーロッパ解放に拍車をかける。

2011年、いまは記念館になっているブレッチリー・パークのアーカイヴで、ガルボが1944年6月9日に送ったメセッージが、ベルリンが信じていたことを証明するドイツ軍の暗号通信が見つかった。ドイツが完全に罠にはまった証拠だ。日本の駐独大使・大島浩も、ガルボ情報を信じて「パットン将軍指揮下の23個師団が新たな侵攻のため待機している。これが、ドイツ軍がノルマンディ地方へ大量の兵力を投入しない理由だ」と6月23日付けで東京へ報告している。

7月29日ガルボは、彼の「類い稀な貢献」に対して、ヒトラーからドイツの最高勲章である鉄十字章が授与された、との知らせを受ける。ガルボは「総統への感謝の言葉がでないほど感激しております。わたしごときにこの栄誉が与えられ恐縮です」「この栄誉はわたしの同僚に与えられたものです」と返信した。その日、ガルボとハリスは同僚とこの栄誉に祝杯を挙げたにちがいない。

11月25日、彼は英国王ジョージ6世からその貢献に対して大英帝国勲章MBEを授与された。ダブル・エージェントが敵対する二つの国から、勲章をもらった例はかつてない。
 
「戦時においては、真実はあまりに貴重なので、ウソのボディガードで守らなくてはならない」これは巨大な偽装工作を指導したチャ―チルの言葉である。

ノルマンディ上陸から1年後、ヒットラーの第三帝国は崩壊した。戦後、ガルボは、マドリッドでドイツ情報部の彼の工作指揮官だったクーレンタールと再会し、鉄十字章を受け取った。クーレンタールは、ガルボが二重スパイであったことを知らないまま死んだ。48年、ガルボはアンゴラでマラリアに罹り死んだことにしてベネズエラへ移住。スペイン語の教師と本屋を経営して静かに暮らした。1984年、作家ナイジェル・ウェストに説得されて英国へ旅し、バッキンガム宮殿に招待されエディンバラ公と会見、MI5の昔の同僚と再会した。そのあとノルマンディへ行き上陸40周年記念行事に参加した。4年後、‘言葉の戦士’ガルボは72歳で亡くなった。 
 
付記 筆者は以下の3冊の本をもとにストーリーを書いた。『Double Cross : the true story of the D-day spies』 Ben Macintyre著  2012刊、『史上最大の作戦』Cornelius Ryan著 1959刊(早川書房),『D-day:the battle for Normandy』 Anthony Beevor著 2009刊
 

 
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著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

フリー・ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て
「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。