2014.05.01 thu

クレマンソーの香合コレクション ~フランス田舎暮らし(33)~

クレマンソーの香合コレクション ~フランス田舎暮らし(33)~


土野繁樹
 


『クレマンソー:虎とアジア』展を特集した雑誌L’OBHET D’ARTの表紙
 
 
パリ16区の地下鉄パッシー駅近くのフランクリン通り8番地に、ジョルジュ・クレマンソー(1841-1929)の旧宅(現在は博物館)がある。その通りの名は米国独立の父ベンジャミン・フランクリンに敬意を表してつけられたものだ。6,7年前、そこに案内してくれたのは同志社大学時代からの親友でパリ在住40年の岡島貞一郎君だった。
 
クレマンソーは「虎」の異名で恐れられた政治家、20回以上も決闘をした激情の人、ドレフュス裁判で、ドイツのスパイとして断罪されたユダヤ人大尉の無実を主張して、軍と右翼勢力と戦ったジャーナリスト、第一次世界大戦中、首相としてフランスを勝利に導いた英雄、べルサイユ条約の妥結と国際連盟の創立を決めたパリ講和会議の議長、西園寺公望の若い頃からの友人。当時の筆者は彼についてこれくらいしか知らなかった。
 
クレマンソーの邸宅は大きく、エッフェル塔を望見できる庭があった。彼はここで35年暮らし、この家で亡くなっている。その日、最も印象に残ったのは、彼が創刊した「オーロール」紙に掲載された作家エミール・ゾラの大統領宛のドレフュス裁判再審を求める公開書簡「わたしは弾劾する」の新聞記事だった。軍の証拠ねつ造と隠ぺい工作を激しく非難するガラスケースに入った記事が目に浮かぶ。
 
書斎には半円形の大きな仕事机があり、図書室には膨大な蔵書があった。大量の美術品のなか、歌麿、北斎、写楽の版画が一際目立つところにあり、印象派の画家クロード・モネと彼がジヴェルニーの日本橋に立つ写真があった。それを見て、彼も当時流行だったジャポニズムに魅せられた人だったのだな、と思ったくらいで、日本の美術品の大コレクターで仏教に傾倒した人であったことなどまったく知らなかった。
 
それを知ったのは、現在、パリのギメ国立東洋美術館で開催(6月16日まで)されている『クレマンソー:虎とアジア』展のおかげである。広い会場には、クレマンソーのアジア美術品コレクションが展示されているが、その中心は日本の美術品である。
 

クレマンソー・コレクションの香合 高さ6・3センチの能役者      モントリオール美術館所蔵

 
展示作品のなかでも、500点の香合のコレクションは魅惑的だった。ここには懐かしい日本が凝縮されていた。香合は茶道で使う道具である。手の平にのるほど小さなもので、磁器、陶器、木製、貝殻でつくられ、中にはお香が入っている。桃山と江戸時代の職人が魂をこめて創った香合のモチーフと意匠と色彩のなんと多様なことか。鳥、魚、虫、花、楽器、風景、人とあらゆるものがモチーフとなり、京焼、楽焼、織部、有田などのデザインがあり、尾形乾山や永楽保全などの名匠の作品がある。高さと幅が5-8センチの小品なのに、存在感があり楽しく美しい。クレマンソーはこの日本美に魅せられ世界一の香合コレクターになった。彼が集めた香合の数はなんと3112にものぼる。当時、浮世絵や根付けのコレクターは多かったが、香合の美を発見し熱狂的なコレクターになったのはクレマンソーだけだった。彼の美意識は桃山と江戸の職人の魂に共感したのである。
 
彼はなぜ香合に夢中になったのか。精巧を極めた職人芸、独特の美しさ、ミニアチュアの魅力、多彩な意匠、特異なキャラクター(おかめ等)といろいろあるだろうが、何に最も魅かれたかはよくわからない。クレマンソーはいつも香合をポケットにいれていたというから、彼の日本美術コレクションのなかでも最も身近で愛着があったと思われる。1892年、急進党の指導者だった彼は、パナマ運河会社の大疑獄事件に巻き込まれ(のち潔白が証明される)、翌年の選挙で下院の議席を失い借金を抱え込んだ。それを返すために、長年かけて収集した版画3000点、絵画500点、デッサン、扇、書籍、磁器などを3万フラン(議員の年間報酬の3倍)で売却したのだが、版画40点と香合のコレクションだけは手放していない。
 
このコレクションはクレマンソーの死後、1938年に彼の息子がカナダ人のコレクターに売却しその後何度も転売され、1960年にカナダのモントリオール美術館が購入した。しかし、その後もったいないことに長い間倉庫のなかで眠っていた。東洋美術の専門家がいなかったからだ。1976年、それを発見したのは、同美術館の東洋部長に就任した蓑豊さん(現、兵庫県立美術館館長)だった。倉庫で“KOJO”と記された大量の箱を見つけて開けてみたら茶道具の香合が入っていた、それがクレマンソーのコクションだった、と彼は語っている。2年後、600点の香合が日本に里帰りし、東京の高島屋などで展覧会が開かれ話題を呼んだ。コレクションの第二の故郷フランスへの今回の里帰りは76年ぶりとなる。
 
クレマンソーの肖像画(39歳)(エドゥアール・マネ作) オルセー美術館所蔵 ウィキペディア
 
クレマンソーはいつ頃から日本美術に関心を持ったのだろう。おそらく、彼が米国ニューイングランドで4年間、新聞記者と仏語教師として働き、アメリカ人の妻を娶って1869年パリに戻ってきた後だろう。70年代、彼は医学校を卒業し医者となり、同時に急進左翼の政治家として頭角を現していくが、その時代に日本美術に魅せられていく。彼が日本に好奇心を持つきっかけとなったのは、西園寺公望との出会いだった。西園寺は留学生としてパリに10年(1870-80)滞在するが、1872年、著名な法学者エミール・アコラの学校で出会い親交を深めていく。後に、二人とも2度首相になっている。
 
『クレマンソー:虎とアジア』展を10年前に構想した歴史学者マチュー・セゲラさん(現、東京国際フランス学園教師)が”Clemenceau ou la tentation du Japon(クレマンソー または 日本の誘惑)“(CNRC 2014)という秀作を刊行している。ジャポ二ズムに関する本は数多あるが、極めてオリジナルティがある著作で面白い。ルモンド紙のインタビューで彼は、クレマンソーと西園寺は親しかったが「西園寺にとってクレマンソーは師匠で、お手本だった」と言っている。クレマンソーは8歳年上で、すでに医者、政治家だったが、西園寺は留学生だったからそんな関係だったのだろう。
 
1880年、西園寺はデモクラシーの信奉者となり帰国する。当時、日本は自由民権運動の昂揚期で、運動に共鳴した西園寺は中江兆民と共に「東洋自由新聞」を創刊し社長となる。しかし、皇室の圧力で社長を辞めた頃から、西園寺の急進改革思想も萎んでいく。1919年、クレマンソーはパリ講和会議の日本代表である西園寺と何十年ぶりかで再会する。彼はそのときの印象を「かつての燃えるような情熱の持ち主は皮肉屋の老人になっていた」と書き失望している。ともあれ、若き西園寺はクレマンソーにとって、かけがえのない日本の文化と美術の紹介者であった。
 
オランジェリー美術館の「睡蓮」大壁画の一部                                       ウィキペディア
 
70年代以降、クレマンソーは浮世絵や磁器に魅せられたゾラ、モネ、マネ、デガ、ピサロなどの画家や作家の友人たちと付き合っていたから、彼らの日本美術熱にクレマンソーも感染しジャポ二ストになったのは間違いない。とくに、親友だったモネとの交流が果たした役割は大きかった。
 
クレマンソーはソルボンヌの医学生だった1865年にモネとカルチェ・ラタンのカフェで初めて会っている。80年代の終わりに再会し意気投合、生涯の友となった。クレマンソーは光の画家モネの才能に惚れこみ、パリのオランジェリー美術館に傑作「睡蓮」の大壁画を展示するプロジェクトの最大の推進者になった。ジャーナリストであったクレマンソーは多くの本を書いたが、モネの死後『クロード・モネ 睡蓮』を刊行し彼に捧げている。
 
印象派の絵はフランスでは当初、ロマン主義や新古典主義を信奉する人々から狂人の作品だと思われ、90年代前半にモネやドガの作品が高値で売れ始めた頃でも、保守的な人々は評価していない。そんな風潮のなかで、クレマンソーは印象派の斬新な美をいち早く見抜き断固支持している。彼は植民地主義に反対し、人種差別を糾弾し、政教分離を実現した時代を切り拓いた前衛政治家であった。印象派は絵画の世界の前衛だった。さしずめ、クレマンソーとモネはアバンギャルド突撃隊長というところだろう。
 

林忠正                     ウィキペディア
 
クレマンソーはどんな経路で日本美術のコレクションをしたのだろう。彼が最も情熱的にコレクションをしたのは80年代だが、それを助けたのはパリの美術商シーグフリート・ビングと日本人美術商・林忠正、フランス人外交官フランシス・ステナケールだった。
 
ドイツ生まれでフランスに帰化したビングは1884年に日本アート専門店を開き、月刊雑誌「芸術の日本」の発行や浮世絵展を頻繁に開催した日本美術を西洋に紹介した最大の功労者である。彼は1895年には「アール・ヌーヴォーの店」を開き、アール・ヌーヴォーの命名者となったことでも知られる。
 
ある日、ビングの店を訪れたクレマンソーのエピソードが残っている。彼は、日本から到着したばかりの西行法師の小さな木像を見つける。江戸の庶民が愛用した素朴なその木像に魅せられた彼は「今日この店に寄って、こんな人間味に溢れた作品に巡り会えた。なんという幸せだろう」と言ったという。この西行法師像はいつも彼の仕事机の上に置かれていた。
 
富山県出身の林忠正は1878年の第三回パリ万国博覧会に通訳として参加し、その後もパリで暮らし、1884年に日本美術店を開いている。彼はパリを本拠に西欧諸国、米国、清などで日本美術を販売する一方で、日本文化と美術の紹介をした。誠実で友情に篤かった林は印象派の画家たちに信頼され親交を結び、作家エドモンド・ゴンクールの著作『歌麿』『北斎』の手助けをしている。
 
70年代は、パリの第二回万国博覧会(1867年)で日本の工芸品が人気を呼び、フランス人の好奇心に火をつけたのは確かだが、80年代末まで浮世絵は印象派画家など少数の愛好者だけのものだった。林が浮世絵を販売しはじめたのは1889年だったから、熱狂的な浮世絵ブームの幕開けはその頃だったということになる。
 
文明開化の日本では浮世絵は卑しいものと見られていたから、誰も見向きもしなかった。だから、林も安く仕入れて儲けたことだろう。しかし、林の伝記を書いた作家・木々康子さんによると、日本で浮世絵の価値が認められる時代になると、彼は「浮世絵を流失させた国賊」とのレッテルを貼られたという。これは下衆の勘繰りの典型だろう。‘愛国病’に罹った日本人が時に示す度量の狭さである。林のような人がいたから、印象派の名作が生まれ、歌麿や北斎が世界的アーティストとして認知されたのではないのか。
 
話がすこし飛んだが、ビング、林と共にコレクションに貢献したのは、クレマンマンソーの友人で日本に25年間滞在(1858―1906)した外交官ステナケールだった。彼はその任地、東京、神戸、長崎、横浜で、クレマンソーの信頼するスカウトとなって協力している。コレクションは彼の現地からの情報と審美眼によるところが大きい。


クレマンソーと涅槃像 1898    クレマンソー博物館所蔵               ウィキペディア
 
上の写真はクレマンソーがフランクリン通り8番地の自宅書斎の机を前にして撮ったものである。当時、彼は57歳、議席を失い執筆活動に専念していた。よく見ると、机の左端に涅槃像(釈迦入滅のときの寝姿をかたどった像)が置かれている。
 
彼は自他ともに認める無神論者で反教権主義者だった。しかし、仏教への関心は深かった。仏教への手ほどきをしたのはギメ美術館の創設者エミール・ギメだと思われる。ギメはリヨンの工場経営者だったが、若いときから東洋文明と宗教に関心があり1876年にフランス文部省の委託を受けて、日本、中国、インドの美術と宗教の調査に出かける。6か月にわたる大旅行だった。帰国した翌年、彼は『日本散策』(邦訳は『ボンジュール,かながわ』)を出版した。この本の挿絵を担当したのは、旅に同行した画家のフィリップ・レガメだった。そこには、当時の日本の庶民の暮らしが生き生きと描かれている。日本訪問中、ギメは大量に仏像と仏具を購入したが、友人だったクレマンソーはそれを見て感じるところがあったのではなかろうか。
 
ギメ美術館のインド美術部長であるアミナ・タハ・フセイン・オカダさんが冒頭の特集雑誌に「クレマンソーと仏教」と題するエッセイを寄稿し、虎と呼ばれた男の仏教観を紹介している。彼は「釈迦はこの世に現れた平和と友愛を唱える最も偉大な説教師である」「釈迦は神ではなく、霊魂でもなく、祈りの対象ではない」「釈迦はゴルゴダの丘抜きのイエスだ」と書いている。そして、仏教はキリスト教より優れていると考えていた。その理由は、キリスト教は人間への愛を説くが、釈迦の慈悲の心は生きとし生けるものすべてに注がれる、仏教はキリスト教のように戦闘的な布教はしない、と言うものだった。後者に関して、クレマンソーは皮肉をこめてオーロール紙に次のように書いている。「マルセーユの港に仏教と神道の宣教師が到着し、われわれに宗旨替えを迫る日をわたしは心待ちしている。その日が来れば、われらが神父の反応が、東洋で僧侶がキリスト教宣教師へ示したものより、寛大かどうかが分かるからだ」。
 
ギメ美術館で日本とチベットの僧侶を招待して、1890年代に4度、法要が催されたことがある。クレマンソーはいつも最前列に座りその仏教儀式に参列していた。初回の法要を取材にきたひとりのジャーナリストが彼の姿を見つけ‘悪名高い無神論者で知られている彼がなぜこんなところに’と怪訝な表情を見せたのをクレマンソーは見逃さず「お察しのとうり、わたしは仏教徒ですよ」とユーモラスに言ったという。彼の教皇とカトリック教会への反感は強烈だったから、仏教への傾倒はその反動だったのかもしれない。
 
パリ講和条約の妥結という極めて困難な大仕事を、ウィルソン米大統領、ロイド・ジョ―ジ英首相とともに6か月かけてやり遂げたクレマンソーは、翌年の1920年、大統領の座を狙ったが果たせず政界から引退する。同年秋から翌年春までの7か月間、彼は長年の念願だった南アジアと東南アジアの旅を敢行する。この旅の最大の目的は仏教の聖地、名所旧跡巡りだった。彼はそのとき80歳、残念ながら日本は遠すぎて諦めた。ジャワのボルブドゥ―ル遺跡、スリランカのポロンナウルの涅槃仏を訪れたあと、彼はカルカッタで体調を崩し、医者からフランスに戻ることを勧告される。しかし、彼は「カルカッタで死のうが、パリで死のうが、それはまったく重要なことではない。インドに行かずにパリに戻りたくはない」と言ってそれを断った。クレマンソーは元気になり、インド各地を精力的に訪れ、聖地ベナレスの印象を「まるで非現実世界にいるような気持ちだった」と記している。
 
1929年11月24日、彼はフランクリン通りの自宅で亡くなった。88歳だった。書斎の仕事机の上には涅槃像が置かれ、同じ年に刊行された東洋学者ルネ・グルッセの『釈迦の足跡を訪ねて』という本があった。
 

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著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

フリー・ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て
「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。