2014.02.14 fri

原爆事故、ニアミスの恐怖 ~フランス田舎暮らし(32)~

原爆事故、ニアミスの恐怖 ~フランス田舎暮らし(32)~


土野繁樹


ビキニ環礁での水爆実験 1954年    US Department of Energy

ヒロシマ型の260倍の威力のある原爆が、米国ノースカロライナ州の田舎であわや爆発、危機一髪という事件があったことを、読者はご存じだろうか。昨年9月、共同通信が英国のガーディアン紙の特報として短く報道していたが、筆者は、その記事のソースになったアメリカ人ジャーナリスト、エリック・シュローサーの著作“Command and Control:Nuclear Weapons,the Damascus Accident, and the Illusion of Safety” 2013年刊(『指揮と統制』核兵器、ダマスカス事件、そして安全幻想)で詳細を知り背筋が寒くなった。
 
シュローサ―は米国の情報公開法によって明らかにされた空軍の機密書類を精査してこの核兵器事故の真相を究明している。以下その要点を紹介しよう。
 
1963年1月23日ノースカロライナ州のゴールドボロの農園に、B-52爆撃機からマーク39型水素爆弾が誤って落ちたこの事件について米政府は「爆発の危険はなかった」と公式発表していたが、真実ではなかった。
 
当時は冷戦がピークのころで、米国は、ソ連との核戦争に備えて常時24時間、核爆弾を装備したB-52の編隊を北極海上空に飛行させていた。核兵器事故は、飛行中のB-52の右翼から燃料漏れが発見されたことから始まる。同機はゴールドボロ航空基地に緊急着陸をするため3000メートルまで降下したが、きりもみ状態になり8人の乗組員はカタパルトで脱出(3人死亡)、2発のマーク39水素爆弾は機体から外れて落下、B-52は空中分解して墜落炎上した。
 
落下する2発の核爆弾の一つのパラシュートが開き実戦プログラムにしたがって、起爆装置が始動しはじめた。4つある起爆装置のうち3つが作動したが、4つ目の最後の装置が作動せず奇跡的に爆発は起こらなかった。のちの調査でその装置は故障していたことが判明している。(爆発寸前の爆弾はパラシュートで樹にかかった:下の写真)もうひとつの核爆弾は地下6メートルまで突っ込み分解したが、幸いこれも爆発しなかった。
 
マーク39水素爆弾はTNT爆弾に換算すると400万トンの威力がある。もし爆発していたら、半径27キロ圏の住民は確実に命を失い、ワシントン、ボルチィモア、フィラデルフィア、ニューヨークに死の灰が降り注ぎ数百万の犠牲者がでていたと推定されている。
 
この事故については危機一髪だったのではとの報道もあったが、米国政府は繰り返し核事故防止スステムがほどこされているので、危険はなかったと表明していた。事件直後、ペンタゴンの報道官はB-52は「核爆弾が起爆しないプログラム」で飛行していたと言い、20年後にも「二つの安全装置が機能していた」ので危機的状況ではなかったと説明していた。これが、真実ではなく政府の嘘であることをシュローサ―は証明したのである。
 
今回の情報公開で明らかにされた決定的な証拠は、サンディア国立研究所の核兵器・安全管理部門の上級研究員パーカー・ジョンズが、当時の機密事故記録を8年後に検証した秘密メモのなかにあった。そこには「ごく簡単な発電技術で作動する低電圧のスウィッチが、米合衆国と破局との狭間にあった」と書かれてあった。振動によって電流が流れ最後の安全装置のスウィッチがONになったかもしれないほど際どい事故だったのだ。
 
核爆弾事故が起こった1961年2月23日はJ・Fケネディ大統領がニューフロンティアを掲げて希望溢れる就任演説をした3日後であった。

爆発寸前だったノースカロライナに落ちた核爆弾 Wikimedia Commons

著者エリック・シュローサーは一級のノン・フィクション作家である。デビュー作“First Food Nation”2001年刊(『ファーストフードが世界を食い尽くす』草思社)は世界的ベストセラーになり、いまでも読み継がれている。“Command and Control”は冷戦時の米ソ核対立の狂気の歴史をたどり、米国内の知られざる核兵器事故の数々を描いた640頁の大著で、脚注だけでも90頁もある調査報道のお手本のような大作である。彼はこの本に6年の歳月をかけている。
 
核兵器に関する政府機関の報告書と情報公開された軍の機密文書、その他の著作、論文など膨大な量の資料を駆使して、彼はこの本を書いた。シュロ―サーは数百人の関係者をインタビューしているが、その中には核兵器設計者、ミサイル基地司令官、事故防止システム・エンジニア、爆撃機パイロット、核兵器の管理・維持マネージャー、修理担当の兵士などもいる。英米の主要な雑誌と新聞は書評でこの本を激賞しているが、とくにニューヨーカ―誌は長い記事で内容を紹介し、これはまるでテクノ・スリラーだと言っている。ちなみに、シュローサーの妻は映画俳優・監督のロバート・レッドフォードの娘である。
 
彼は著作のなかで、コンピュータの作動ミスであわや核戦争へ突入かと思われたケースを紹介している。以下はそれら4つの事故の概要である。
 
1995年1月25日午前9時28分、モスクワ。ロシア共和国大統領・ボリス・エリツィンに補佐官がブリーフケースを渡した。ケースを開くと、スクリーンに4分前にノルウェー海域からミサイルが発射され、モスクワへ向かっているようだとの情報が示されていた。スクリーンの下には核発射の命令を下すボタンがあった。エリツィンがこのボタンを押すと、世界中の標的に向かって核ミサイルが発射されることになっていた。参謀総長ミハイル・コレス二コフも同様のブリーフケースを持ち、スクリーンでミサイルの軌道をモニターしていた。ミサイルは上昇すると高度が下がっていたが、これはNATOが西ヨーロッパに配備しているパーシング2型のミサイルの軌道パターンと同じものだった。それにミサイル発射地は、米国原子力潜水艦が潜航している地域と一致していた。コレスニコフはホットラインでエリツィンにそのことを伝えた。ロシア大統領に残された時間は6分しかなかった。
 
その直後、ロシア参謀本部はミサイルの軌道がロシア領土から外れたことを確認し、エリツインのブリーフケースは閉じられた。その後の調査でわかったのは、エリツインと将軍たちが見ていたのは、ノルウェーが発射したオーロラ調査のための気象ロケットだった。ノルウェー政府によると、数週間前にそのことをロシア側に通知していたという。通知をうけたロシアの機関が、その重要性を理解せず軍部に連絡しなかった公算が大きい。

同様な世界の破滅につながる誤警報はアメリカ側にもあった。
 
1960年、コロラド・スプリングにあるNORAD(北米防空司令部)のコンピュータが99.9%の確率で、ソ連がアメリカに向かって大量のミサイルを発射したとの警告を発した。間もなく、核弾頭を搭載したミサイル群が合衆国に到達するという。しかし、ソ連書記長フルシチョフはそのとき、ニューヨークの国連本部を訪問中で、ミサイルは飛んでこなかった。なぜこんなことが起こったのか。グリーンランドにある米国のツーレ空軍基地の弾道ミサイル早期警報システムが、ノルウェーの上空に登ってくる月を、シベリアからのミサイル攻撃と誤認したことが原因だった。

1979年、NORADのコンピュータはソ連の全面ミサイル攻撃の警報を発した。パイロットは攻撃機に乗り込み、ミサイル発射準備が整えられ、航空管制官は民間航空機にまもなく着陸命令が発せられることを伝えた。しかし、これは偽の警報だった。調査報告よると、原因はNORADのスタッフがウォ―ゲーム(図上演習)のテープをコンピュータに入れたためだった。
 
その翌年、カーター米大統領の安全保障担当補佐官ズビグネフ・ブレジンスキーは午前2時半に将軍の電話でたたき起こされた。将軍はソ連の220基のミサイルがアメリカへ向かって発射されたと伝えた。ブレジンスキーは「もうすこし調べて、電話してほしい」と言った。間もなく将軍から電話があり「ミサイルの数は220基ではなく2200基です」という。ブレジンスキーは寝ている妻を見て起こさずにおこう、核戦争になったらこのまま亡くなったほうがいいと思ったという。しかし、これは誤報だったので、彼は大統領の判断を仰ぐことはなかった。偽警報の原因は、46セントのコンピュータ・チップの欠陥だった。


著者 エリック・シュロ―サー             The Guardian

シュロ―サーは、ごく平凡な日常的なミスがきっかけで、ミサイル爆発にまで発展したダマスカス事件に多くの頁を割いている。この事故は1980年9月19日、アーカンソー州の小さな町ダマスカス近くのミサイル基地で起こった。

その日の朝、大陸間弾道ミサイル・タイタン2型(長さ30m)の修理をしていた19歳の空軍兵士が工具(スパナ)を落したことから、悪夢のドラマははじまった。20メートルの高所から落ちたスパナが、燃料タンクの壁を突き破り大量の酸化剤が流出しはじめた。9時間後、それが原因でタンク内の圧力が低下し燃料爆発が起こり、サイロとミサイルが吹き飛んだ。空軍はこんな事故は想定していなかったので、現場では大混乱がおき試行錯誤の必死の作業が行われ、翌日、やっと危機を脱した。

爆風で核弾頭はサイロの外の道路まで飛ばされたが、幸い安全装置が機能して爆発は起こらなかった。しかし、核爆発が起こっても不思議ではない事故だった。

タイタン2型はその日、米国最強の核爆弾を装填していた。その威力は9メガトンで、第二次世界大戦で使われたすべての爆弾―広島、長崎に落とされた原爆も含めてーの3倍の破壊力をもっていた。もし、これが爆発していたら、当時ビル・クリントンが知事をしていたアーカンソー州は消滅していただろう。
 
アーカンソーではスパナが落ちてミサイルが爆発という考えられないことが起こったが、それに似た事故をもう一つシュローサ―は記している。B-52爆撃機の乗組員が、長距離飛行に備えて4つのゴムのクッションを持ち込み座席の下に置き、それが排熱口に近すぎたので火災が発生した。B-52はグリーンランドにある米軍の最も重要な秘密レーダー基地に緊急着陸体制にはいる。しかし核爆弾4発を装填したB-52は着陸に失敗して基地施設に激突するところだった。そうなっていたら、核爆弾は爆発したかもしれない。
 
これまで紹介した事故はいずれも冷戦時代のものだか、米ソ対決が終わり米空軍は気が緩んだのか、最近の核兵器の管理が甘いと、シュロ―サーは心配している。たとえば、2007年に起こった核爆弾6発の行方不明事件。格納庫にあった核爆弾をB-52に移動する際に必要な書類手続きをしなかったので記録がなく、36時間大騒ぎになったというおどろくべき事件があった。
 
ペンタゴンの公式発表によると、深刻な核兵器事故は32あったことになっている。しかし、米エネルギー省の管轄下にあるサンディア国立研究所の核兵器・安全管理部門の調査によると1950-68年の間1250件の事故があり、そのうち700は危険があったという。シュロ―サーも、ペンタゴンはすべてを発表していないので、その数はもっと多いと言っている。

核戦力を統括する戦略空軍司令官であったジョージ・バトラー将軍は、過去の核兵器事故について「冷戦時代に核のホロコストにならなかったのは、安全技術と幸運と神の御加護があったからだと思う。いや、あとの二つのおかげだろう」と、シュロ―サーに語っている。


タイタン2型ミサイル爆発事故現場 アーカンソー州ダマスカス     Hubgarage.com

米国は原爆を発明した国で、世界最高の技術を誇る国である。だから核兵器の安全システムの分野でもトップレベルであるのは間違いない。しかし、それでも上記のような危機一髪の事故がいくつも起こっている。

となるとソ連とロシアでも同じような核兵器事故があったのは確実だろう。事実、1957年のウラル核兵器工場の爆発事故や2000年にあった原子力潜水艦クルクス号の原子炉事故による沈没などは知られているが、これは氷山の一角と思われる。

現在、核保有国は米国、ロシア、英国、フランス、中国、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮だが、核兵器の管理は各国ともトップ・シークレットだから、事故があっても表にでない。ハイテク技術の事故率の国際比較があるが、それに照らすとパキスタン、インド、北朝鮮が核事故を起こす確率は高い。

北朝鮮の暴走も怖いが、政情が不安定なパキスタンの核兵器が過激派によってハイジャックされることも怖い。それに、互いが憎しみ合っている印パの緊張関係がエスカレートして核戦争に突入する可能性もある。現在、核管理の専門家の最大の懸念はテロリストが核兵器を手にいれることだ。

911事件以降、世界の眼はテロの脅威に向いているが、核兵器の危険性が減じたわけではない。米国の核兵器事故の歴史を知ると、よく事故が起こらなかったものだと思う。シュロ―サーはローリングストーン誌のインタビューで「これまで、ナガサキ以来、都市が原爆で破壊されなかったのは、とてつもなく幸運だった(Very,very,very,very,very fortunate)」と5回もveryを使って言っている。この70年間、幸運の女神Fortuna(フォーチュナ)が人類に微笑んでいてくれたわけだ。「しかし、この幸運が続くという保障はない」と彼は付け加えている。

ストックホルム平和研究所の2012年版年鑑によると、全世界にある核弾頭数は約19000発でその内訳は、米(8500)、ロシア(10000)、英(200)、仏(300)、中国(250)、インド(100)、パキスタン(100)、イスラエル(80)北朝鮮(?)となっている。冷戦のピーク時に比べると米ソの核爆弾の数は75%も減っているが、爆弾の数だけ事故が起こる可能性があるわけだから危険はいっぱいだ。
 
人類誕生以来、最も危険なマシーンを制御する能力は、それを製造する能力に追いついていない。それに、人間は間違いを犯す動物だ。化学兵器、生物兵器が国際法で禁止されているのに、それ以上に野蛮な大量殺戮兵器、原爆は禁止されていない。
 
筆者はシュロ―サーの本を読んで核廃絶論者になった。

 
 
 

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著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

フリー・ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て
「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。