2013.10.31 thu

スパイの暴走 ~フランス田舎暮らし(29)~

スパイの暴走 ~フランス田舎暮らし(29)~


土野繁樹


DPA
 
ドイツ情報機関BND(連邦情報局)長官から「首相の携帯電話はNSA(米国家安全保障局)から盗聴されています、確かな証拠もあります」との報告を聴いたアンゲラ・メルケル独首相の顔色が変わった。
 
10月23日、メルケルはオバマ米大統領に電話をし、いつになく厳しい口調で、「これが本当なら受け入れがたい。直ちに調査をして説明してほしい」と言った。オバマは「盗聴は現在していないし、将来もしない」と答えた。しかし、この発言では過去における盗聴については触れていない。
 
10月26日、ドイツのシュピーゲル誌は、エドワード・スノーデン(NSA前分析官)が国外に持ち出したNSA機密文書に基づいて、メルケルは2002年からら今年の6月まで監視・盗聴されていたと伝えた。ということは、メルケルは野党の党首だった頃から10年以上にわたって監視の対象になっていたということになる。NSAは彼女の交信記録だけではなく、盗聴しそれを録音していた可能性が高い。
 
さらに、シュピーゲル誌は、ベルリンのブランデルブルグ門近くにある米大使館4階でNSAとCIAの特別班が最新のハイテク技術を駆使してドイツ政府機関のモニターをしていたと伝えている。このような外国政府機関を監視する施設は世界中に80カ所あり、ヨーロッパには19カ所あるという。NSA機密文書には、この活動が公になると外交問題になり大きなマイナスになるだろうと記されているが、この危惧が現実になったわけだ。
 
6月、オバマはベルリンを訪れたが、記者会見でNSAの盗聴活動について、つぎのようなジョークを飛ばしている。「わたしは、このような活動のエンド・ユーザー(末端の消費者)だ。首相がなにを考えているか知りたいと思えば、メルケル首相に電話をするよ」。7月、メルケルは、TVインタビューで盗聴されている可能性はないのかと聞かれ「わたしが盗聴されていることなど聞いたこともない」と答えている。
 
しかし、盗聴が事実であることが明らかになり、そんな呑気な空気は吹き飛んだ。


BBC


フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙は23日にメルケルがオバマに電話したとき、彼は盗聴を謝罪し「自分は知らなかった、知っていれば止めていたと言った」と報道した。しかし、27日のドイツの大衆紙ビルトは、NSA長官キース・アレキサンダーは2010年にメルケルを盗聴していることを、大統領に報告したが「オバマはそれを止めず、継続させた」とNSAスタッフが語ったと書いた。

となると、オバマはウソをついたことになる。これは大ニュースだと世界中のメディアが一斉に報道した。しかし、NSA報道官は「アレキサンダー長官は、メルケル首相に関する情報収集活動についてオバマ大統領と話し合ったことはない。報道は事実ではない」と否定したので、これは大衆紙の誤報だろう。

BBCのベルリン支局のステファン・エバンス記者はメルケルに親しい人々を取材して‘彼女のショックは大きく、侮辱されたと思っている’と伝えている。あれだけ親しくしていたオバマに裏切られたという思いだろう。それに、東ドイツの秘密警察シュタージの監視体制のもとで半生を過ごした彼女にとって、まさか自由の国アメリカがこんなことをやるとは、との思いは人一倍だろう。

保守のヴェルト紙は一面大見出しで「オバマのオーラは消えた」と書き、「彼は良きアメリカを代表していた。しかし、その輝きは消えてしまった。オバマの情報機関によって引き起こされた傷を癒さなくてはならない」と、オバマへの失望感を表明している。これは大多数のドイツ人の気持ちだろう。
 
国家の安全保障のために敵性国家をスパイするのは日常のことだし、同盟国が互いにスパイ合戦(とくに産業情報)をしているのも事実である。しかし、同盟国の首脳を対象にするのは異常だ。10月25日の英国のガーディアン紙は、NSA機密文書によると、35国の首脳の電話が盗聴されているというから、日本の歴代首相も対象になっているのは間違いない。
 
ともあれ、メルケル盗聴事件で、ドイツと米国はいま、10年前のブッシュのイラク戦争をめぐる対立以来の最悪の外交危機に直面している。
 
ドイツ内務相ハンス=ペーター・フリードリッヒは「ドイツ基本法では盗聴は違法なので、それに関与した者は法の裁きを受けることになる」と言っているから、これはアメリカ大使館4階でスパイ活動をした者への警告だ。10月30日、ドイツ情報機関のトップとメルケルの外交顧問がワシントン に乗り込み、ホワイトハウスで米国の情報機関の総括責任者と大統領補佐官を相手に、今後の対応について協議に入った。おそらく、ドイツ側は、米国と英国の間で結ばれているスパイ禁止協定と同様のものを要求すると思われる。
 
5年前‘Yes we can で世界に希望を与えたオバマ大統領は、いまヨーロッパ人からNo you can not(それはだめだ)と言われている。


NSA本部                        BBC


NSAはCIAよりも規模が大きい世界最大の情報機関である。海外情報通信の収集と分析、暗号解読・開発がその主な任務だ。ワシントンの北東30キロに本部があり、人員4万人で軍人と民間人で構成されている。予算は推定80―100億ドル(ルモンド紙)で、100億ドルとすると1兆円だから日本の軍事予算5兆円の20%に当たるから巨額である。
 
NSAは1952年、トルーマン大統領の命令で創設(当時でも1万の人員)された秘密組織で、長い間、米国はその存在を認めていなかった。公表された後でも、このスパイ組織は国家機密を理由に情報公開を拒んできたので、NSAはNever Say Anything(なにも言わない)の略だと皮肉られていた。
 
21世紀に入ってNSAの存在がますます大きくなっている。その理由は、電子情報時代が加速化し、同時多発テロ・911事件が起こったためである。ブッシュ大統領はアルカイダの挑戦を「テロとの戦争」と定義づけたので、戦争に勝つための情報戦の最前線にいるNSAの権限が大きくなり予算は急カーブで膨らんだ。国民も9・11事件のショックが大きかったので、テロを防止するためには必要だと思いそれを容認していたきらいがある。
 
しかし、6月、スノーデンが暴いたNSAの一般市民を対象にした大規模なインターネット監視プログラム・プリズム計画を国民は知ることになる。この計画で、NSAはGoogle, Microsoft, Apple, Facebookなど米国の大手インターネット企業9社の利用者のアドレスに直接アクセスしデータを収集していたのだった。さらに、NSAは米電話企業最大手のVerizonの回線を通じた通話に関するデータにアクセスしていた。これらのプログラムの対象になった市民は数知れない。国民はプライバシーの侵害ではないかと怒り不安になった。
 
プリズム計画が発覚し、オバマ政権は通信記録の収集は「テロとの戦い」に必要な手段で合法だとし、メイル内容や盗聴をするのではなく、電話番号や通話時間のデータを集めるだけだと説明した。同時にオバマは記者会見で、国民をテロから守るための努力と国民のプライバシーの間のバランスの見直しを示唆した。
 

The Guardian


NSAはアメリカ国内でやったことを海外でも大々的にやっている。ドイツでは5億件(6月発覚)、フランスでは7000万件(10月発覚)、スペインでは6000万件(10月発覚)の市民の交信データが集められている。いずれも一月間に収集された数字だから凄い。これらのデータはメタデータと呼ばれている。Eメイルの場合、送信者と受信者のメイルアドレス、IPアドレス、メセッージのテーマとそのサイズで、電話の場合は、交信者の電話番号、交信時間と場所である。報道によると交信の内容はカバーしていないという。
 
この方式で過去54件(そのうち半分はヨーロッパ)のテロを防いだとNSAは公表しているが、なんの相談もなく市民の人権が侵害された上記の国は怒り米国に強く抗議している。なんの権利があってそんな勝手をするのだというわけだ。そもそも、アメリカ人が監視の対象になる場合は、法的手続きが必要とされるのに、外国人だと手続きなしでよいというのは二重基準だ。
 
メルケルがオバマに電話をかける2日前、オランド仏大統領もオバマに電話をかけNSAの前述のフランス国民へのモニターと在米の仏外交官への監視・盗聴に強硬な抗議をしている。
 
NSA機密文書を基にしたルモンド紙のスクープ記事によると、2010年、国連常任理事会でのイラク経済制裁についてのフランスの意向を探るために、NSAは仏外交官の電話を盗聴していたという。その理由はフランスが制裁に反対するインドとコンタクトをとっているのを懸念したからだった。フランスは制裁に賛成票を投じたので杞憂だったわけだが、当時、米国連大使だったスーザン・ライス(現、安全保障担当大統領補佐官)が「彼らの真意を知ることができて、一歩先んじて交渉ができて助かった」と言ったと機密文書に記されている。
 
こんなことは、フランスもおそらくやっているのだろうから、お互いさまということになるのだろうが、問題はNSAのスパイ活動のスケールの大きさだ。フランスのGDSE(対外治安総局)元長官は、その規模はフランスを1とすると英国は10、アメリカは100だという。それほどの力の差があるのだろう。NSA専門記者・ジェームス・バムフォードは、IT技術の最先端を駆使しているNSAと他の国々との情報収集能力の差は核兵器と機関銃ほどもあるという。
 
これは大袈裟にしても、NSAが地球全体に網を張って、テロリストを探りだすという大義名分で、超大量のデータを集めているのは事実である。
 
それにしても、なぜNSAは最大の同盟国で、親米派のドイツ首相を盗聴するという愚かなことをしたのだろう。その理由はおそらくNSAがあまりに巨大な情報探索・収集の官僚組織になっていることにある。情報収集という任務が一人歩きしているのではないか。官僚組織の常で、より大きな予算と人員を獲得し、より大きなデータを集めること自体が目的になっているのではないか。情報が役に立つかどうかは二の次で、それが発覚したときの代償は考えずに、技術的能力があるから、それを使ってデータを集める過ちを犯しているのではなかろうか。
 
次々と明らかにされるNSAの暴走への内外の批判に、オバマは年内中にNSAの活動の徹底的な見直しを行うことを約束している。議会でも与野党の対立をこえてNSAをコントロールすべきだとの声が高まっているので、規制法案が成立する可能性が高い。
 
しかし、10月29日に開かれた下院情報委員会でのNSA長官アレキサンダーとその上司である国家情報局長官ジェームス・クラッパーの証言は、おどろくほどの自己正当化に終始していた。たとえば「同盟国の首脳をモニターすることは情報活動の基本である。すべての友好国が同じことをやっている」という具合である。徹底的に組織防衛をしている彼らに、自己反省の精神など微塵もなかった。
 
ただし、無数のヨーロッパ市民の電話をNSAがモニターしているという独仏スペインの報道はまったく間違っている、電子スパイ行為を行ったのはこれらの国の情報機関でNSAはその情報の提供を受けた、とのアレキサンダーの証言は検証に値する。これが本当なら矛先はこれらの国の政府へ向けられるだろう。
 
次の上院情報特別委員会では、民主党のダイアン・ファインスタイン女史が委員長なので、二人はタフな質問の集中砲火を浴びることは必至だ。ファインスタインはこれまでNSAの守護神みたいな存在だったが、一連のスキャンダルとりわけメルケル盗聴に激怒してNSA徹底改革を主張しているから、二人のクビをかけての攻防戦になるだろう。
 


エドワード・スノーデン         The Guadian

さて、NSAの地球規模の巨大なスケールの通信傍受の実態を明るみにしたエドワード・スノーデンについて語らねばならない。機密を漏えいしたスノーデンは米政府にとっては犯罪者でお尋ね者だが、彼はその動機を逃亡先の香港でガーディアン紙記者に次のように語っている(6月)。「わたしは情報分析官として働いていたが、メイルアドレスさえ分かれば、誰のメイルにもアクセスできた。あなたのものでも、米大統領のものでも読むことができる」「秘密裡にこんなことが罷り通るのは良心が許さなかった、警鐘を鳴らすためにNSAの機密文書を公開する決心をした」。
 
わたしはガーディアン紙が放映した香港のホテルの一室で行われた20分のインタビュー・ビデオをみたが、その話ぶりは穏やかで説得力があった。
 
スノーデンが重刑に処せられるのを覚悟の上で持ち出した機密文書は5万件あるといわれている。CIA元高官によると、その内3万は米国の敵性国家の軍事力や戦略に関するものだという。だから、米国の情報機関は戦々恐々としているわけだ。このトップ・シークレットが入ったディスクを、スノーデンは香港でグレン・グリーンワルト(当時、ガーディアン記者)に渡している。彼は他にも、自分が殺されたときには公開してほしいと、数人の友人にコピーと渡しているという。
 
スノーデンもグリーンワルトも、最近のニューヨーク・タイムズのインタビューで「米国の敵を利することになる機密文書は一切公にはしない」と言っているから、これは彼らのアメリカ人としての矜持だろう。スノーデンは中国にもロシアにもディスクは渡していない、とも言っている。
 
世論調査によると、アメリカ人の35%は彼を裏切り者と思い、32%は公益通報者(whistleblower) と考えている。ということは、半数は彼を勇気あるアメリカ人と思い支持しているわけだ。わたしも、彼は警鐘を鳴らす人だと思う。
 
 
 
 

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著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

フリー・ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て
「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。