土野繁樹
アンゲラ・メルケル独首相 Dapd
ドイツのアンゲラ・メルケル首相(59歳)が圧倒的な強さで3選を果たした。ドイツの主要各紙は社説で、この勝利は彼女が率いるキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)への支持というより、ひとえにメルケル個人の人気によるものだと分析している。
2005年にメルケルが首相に就任した頃、ドイツは‘欧州の病人’と言われるほど経済が悪化(失業率12.1%、成長率0.7%、財政赤字)していた。ところが、今ではヨーロッパ最強の経済(失業率6%、輸出絶好調、均衡財政)を誇りEUの金庫番となっている。
現在、EU(ヨーロッパ連合)諸国は高い失業率と不況に苦しみ、ユーロとEUの将来に暗雲が漂っているが、その解決のカギを握るのはメルケルだ。いまや彼女の同意なしでEUの政策は決まらないほど、その存在は大きい。
ベルリンの壁が崩壊したとき、彼女は35歳の東ドイツ市民だった。半生を共産主義のシステムの下で過ごしたメルケルが、いかにして統一ドイツの首相になり、世界最強の女性といわれるまでになったのか。彼女の経歴、パーソナリティ、政治スタイルを紹介し、その人気の秘密を解き明かしてみよう。
彼女は1954年にハンブルグで生まれた。ルーテル派の牧師である父親の東ドイツ赴任にともなって、生後すぐ両親とベルリンから西に80キロ離れた町テンプリンに移住する。母親はラテン語と英語の教師であった。
彼女の中・高校での成績は抜群で、とくに数学とロシア語が得意だったという。カール・マルクス・ライプツィヒ大学で物理学を専攻、同級生のメルケルと学生結婚をするが4年後に破綻した。
彼女が育った時代は東西冷戦の最中だった。メルケルの父親は社会主義者だったので、家庭の食卓では政治がよく話題になったという。しかし、政府批判にはシュタージュ(秘密警察)が目を光らせていたので、公の場では若きアンゲラは本音を胸のうちに収めていなければならなかった。
彼女の高校時代のクラスメートは当時の空気を「ただただ冬が終わるのを望み、花が咲くのを待っている感じだった」とBBCに語っている。
メルケルの政治の花が育ちはじめるためには、ベルリンの壁の崩壊を待たねばならなかった。
ベルリンの壁が崩壊したあの1989年11月9日の夜、彼女は他の多くの人々と同様に‘東ドイツ市民の西側への往来は自由である’との東ドイツ政治局員の声明を聞いた。彼女はすぐ母親に電話して「ベルリンの壁がなくなったら、西ベルリンのケンピンスキー・ホテルで牡蠣を食べる約束があったわね。西ドイツマルクを準備しておいてね」と言った。
その日は木曜だったので、いつものように彼女は友人と一緒にサウナに行った。そのあとで、大群衆と共に壁をこえて西ベルリンに入り、親戚の家を訪ねた。深夜、メルケルは東ベルリンの自宅アパートにもどり、翌朝、職場である科学アカデミーに出勤した。当時、彼女は博士号をもつ量子化学の研究者で、共産党員でもなく、反体制活動をしたこともなかった。
ベルリンの壁が崩壊すると、東ドイツ市民は政治を自分たちの手に取り戻す運動をはじめた。共産党政権への抗議デモや集会が全土に広がり、自由選挙が行われることになった。メルケルは科学者から政治家への転身を決意し「デモクラシーに目覚める党」に入党した。
選挙の結果、党首ロータル・デミジエールは首相になり,彼女は首相副報道官となる。東ドイツ最後の首相となるデミジエールは、当時のメルケルは外見にはまったく構わず、だぶだぶのスカート、粗末なサンダル、髪は刈り上げで典型的な東ドイツの科学者のスタイルだったと語っている。
選挙から半年後、東西ドイツは再統一し総選挙が行われ、メルケルはヘルムート・コール首相の率いるCDU(キリスト教民主同盟)の候補者として出馬し連邦議会議員となった。コール首相は東西ドイツ統一後、初の内閣をつくるにあって、東ドイツ出身のおとなしい女性議員の入閣を考えていた。相談を受けたデミジエールはメルケルを推薦し、彼女は女性・青少年問題相に抜擢された。
メルケル女性・青少年問題相とコール首相 (1991年) Dapd
当時のCDUは圧倒的に男性議員が多い、家父長制の政党だった。その頂点に君臨していたのが東西ドイツの統一という歴史的大事業を成し遂げたコール首相だった。メルケルはその男社会のなかで力をつけ、1994年に環境・原発担当相になった。
メルケルはコールのお気に入りだったので、党内では‘コールの女の子’と呼ばれていた。しかし、1999年、この‘女の子’は誰をも仰天させることになる。その前年、コールのCDUは総選挙で敗れSDP(社会民主党)に政権を奪われ野党となり、メルケルはCDUの幹事長に就任していた。その状況のなかで、コールが党首をしていた時代のヤミ基金問題が暴露されたのだ。党への献金の一部がヤミ基金に横流しされ、コールの友人の協力に報いるため使われたという疑惑である。
党内には誰も、コールに名誉党首の座から降りるべきだ、と直言する者はいなかった。が、それをやったのがメルケルだった。彼女はドイツの有力紙フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングの一面に記事を寄稿した。彼女はこの事件は党の悲劇だと言い、コールの責任を問い、CDUは新しい道を歩まねばならない、「そのことをコール前首相はよく分かっておられると思う」と書いた。これが引き金になりコールは辞任した。メルケルは政治的親殺しをやったのだ。これはおどろくべきことだった。しかし、党内での彼女の株は急上昇した。
コールと共にヴォルフガング・ショイブレ(現財務相)党首もスキャンダルの責任をとって辞任したので、党大会が開かれメルケルCDU党首が誕生した。彼女の新聞への寄稿から4か月後のことだった。これはドイツ政治の大ドラマだった。
「メルケルについて、ほとんどの人が理解していないことの一つは、彼女は情け容赦のない政治的策士だと言う点だ。党内のライバル全員を追い落としていった手法は、まさにマキャベリアンだった」。(BBCの特別番組‘Making of Angela Merkel’でのインタビュー)
これは、メルケルをよく知る英国首相の主席補佐官だったジョナサン・パウエルの言葉だが、一筋縄ではいかない政治の世界を思えば、さもあらんと思う。
2000年にCDU党首になったメルケルは、5年後ドイツ初の女性首相の座に就いた。
BBC
メルケルのイメージはドイツ国内と海外とではまったくちがう。海外ではギリシャに容赦のない緊縮財政を強いる鉄の女のイメージだが、国内では頼りになる母親のイメージだ。彼女は‘母さん’(ムティMutti)と呼ばれて親しまれている。
メルケルの伝記の著者ラルフ・ボルマンは、彼女の人気の秘密を「ドイツ人が抱く “倹約、真面目、ぎこちなさ、洗練不足”の 自画像と、彼女のそれがぴったり合っているからだ」と解説している。
メルケルは勤勉、質素、控え目の人である。この古き良きドイツ人の伝統を体現している首相に、国民は好感を抱いている。
勤勉:日曜の夜、選挙に大勝利したメルケルはいつになく満面に笑みを浮かべて党本部で挨拶した。「素晴らしい結果がでた。国民の支持に感謝したい」ではじまる短いスピーチの最後の言葉は「明日から仕事にかかろう」だった。
質素:彼女は広くて快適な首相公邸ではなく昔から暮らしているアパートから官邸に通っている。彼女の隣人は、ときどきスーパーマーケットで首相の姿をみかける。夏のバカンスは、毎年、夫のヨルヒム・ザウワー(物理学者)とナポリの郊外にある村のホテルで過ごすが、その一泊あたりの値段は日本の民宿並だ。彼女はブランドとは無縁で、いつもブレーザーとパンタロン姿である。首脳会議でも選挙キャンペーン中でもそれは変わらない。ただし、100種類の色のブレーザーがあるという。
控えめ:メルケルはいつも控えめで物静かだ。大方の政治家は自己顕示欲が強いナルシストだが、彼女にはまったくその気がしない。政治がショービジネス化した現代では、これは稀なことだ。カリスマ性がない面白みがないという批判もあるが、メルケルは意に介していないようだ。どこの国の大統領、首相もプライバシーはあってないようなものだが、メルケルは頑固にプライバシーを守っている。夫のザウワーが表にでてくることはほとんどない。
しかし、真面目のかたまりのような印象があるメルケルも、内輪ではきわめて面白い人のようだ。シュピーゲル誌の記者デアク・コービュバイトは長年、彼女の海外訪問に随行し、オフレコ会見の常連だが、彼によるとメルケルはよく笑い、物まねが得意だという。少人数になる喜怒哀楽を豊かに表現するが、彼女がジャーナリストや側近に声を荒げたことはいちどもないという。
BBC
メルケルは写真を撮られるときに、いつも両手を合わせて菱形をつくる。これは、ブレーザーとともに彼女のトレード・マークになっている。CDUは選挙中にベルリン駅の近くのビルに巨大なその菱形の看板を掲げて支持を訴えた。ドイツの未来をこの手にまかせてほしい、というわけだ。
世論調査によると、メルケルの支持率は65%だから高い。彼女はなぜムティと呼ばれ頼りにされているのか、をもうすこし探ってみよう。
メルケルはこの数年、ユーロ危機の最前線で奮闘した司令官だが、その対応について手を打つのが遅い、救済策が小出しに過ぎるとの国際的批判が強かった。しかし、ドイツの庶民は、メルケルは財布のヒモを緩めずよく頑張って国民を守ってくれた、と思っている。とくに、ギリシャ救済策についてそうだ。
ドイツ人の主婦は、倹約を旨として家計の収支バランスを金科玉条とする。彼らからすれば、借金だらけの超放漫財政、おまけに脱税天国のギリシャに、なぜ巨額なドイツの納税者のカネを突っ込むのか、ということになる。
なにせ、ドイツ語のSchuldenは借りるという意味だが、同時に罪という意味もある。借金をするのは、どこかおかしいからだ、と思われるお国柄だ。
メルケルはそのことを十分知りながら、ユーロが崩壊するとEU解体につながると思っているから、国民が納得できる範囲で数次にわたる救済策で対応したわけだ。
このように、メルケルは忍耐強くステップ・バイ・ステップで問題を解決していく政治家だが、ときに180度の政策転換をする柔軟性ももっている。
ドイツでは長い間、原発存続の正否をめぐって与野党間で論争が続いていたが、フクシマ原発事故の半年前に、メルケルは原発の稼働年数延長を決めていた。しかし、彼女はフクシマの水素爆発を見てショックを受け直ちに凍結を決め、その3か月後に、2022年までの原発全廃と再生可能エネルギ―への転換を決定している。
そもそも原発全廃は緑の党の長年の旗印だったわけだから、お株を奪ったことになる。が、本人も「わたしは時にリベラル、時に保守、時にキリスト教民主主義者だ」と言っているから、この変幻自在こそメルケルの真骨頂だろう。‘君子は豹変する‘である。原発だけではない。野党案でもいいアイディアであれば、すぐに修正を加えて法案にするから、野党も攻めにくい。
メルケルの批判者は、彼女はリスクを避けていつも妥協することを考えていると言う。その批判に対する彼女の妥協哲学が面白い。「家族生活をした人なら、妥協が大事なことを知っている。例えば、日曜に家族でどこへ行くか?これには妥協がいる。政治の世界でも、同じように妥協はいいことだ。この世界で100%の勝利はほとんどない。ほとんどの場合60%だ」
メルケルは科学者だから、このように現実主義的なプラグマティズムに徹している。彼女はヴィジョンをもって、それを実現する政治家というより、問題解決型の政治家だ。問題があると、あらゆる角度からそれを分析し、実現可能なベストの対策を打ち出す手法をとる。側近によると、問題が難しければ、難しいほど、彼女は解決策をみつけるのに熱中するという。メルケルの昔の数学教師が「彼女は問題を解くまで、決してあきらめない生徒だった」と言っているが、いまでもそうなのだろう。
メルケルが大勝した翌日、ドイツの新聞に載った諷刺マンガは、メルケルがスパーマン姿で空を飛ぶのを見上げている人々が、彼女と歴代首相を比較をしている。
「彼女はコールほどヨーロッパ主義者ではないね」「シュミットほどのヴィジョンはないなあ」「シュレ―ダーほどの大胆さはないしね」「ブラントほどのカリスマもないなあ」・・・「でも高いところを飛んでるね~」
メルケルの人気の秘密を解くキーワードは「信頼」ではなかろうか。
孔子曰く’信なくば立たず’
【フランス田舎暮らし ~ バックナンバー】著者プロフィール
土野繁樹(ひじの・しげき) フリー・ジャーナリスト。 釜山で生まれ下関で育つ。 同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。 TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て 「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。 2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。 |