2013.08.30 fri

歴史音痴  ~フランス田舎暮らし(25)~

歴史音痴  ~フランス田舎暮らし(25)~


土野繁樹

 
ドイツ国会議事堂炎上        The German Federal Archives

 
1933年2月27日のドイツ国会議事堂放火事件はドイツ史上の大事件だ。ヒトラーが独裁権を奪取するきっかけなったこの事件を、欧米の知識人なら誰でも知っている。日本人でも現代史に関心のある人なら、どこかで読んだことがあるだろう。
 
麻生太郎副総理兼財務相はこの事件のことは知らなかったようだ。知っていたら「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」(7月29日)というような発言をするわけがない。
 
麻生発言から一月たったが、放火事件のことを日本の新聞も雑誌もほとんど伝えていないようなので、事件を現場で取材した英国のディリ―・テレグラフ紙ベルリン支局長セフトン・デルマーの回想録『邪悪な痕跡』(Trail Sinister 1961年)とドイツの歴史家アレキサンドル・バーハルと物理学者ウィルフリード・クーグルが書いた『ドイツ国会議事堂放火』(Der Reichstagbrand 2001年)をもとに、ヒットラーの血にまみれた政治的陰謀ドラマを再現してみよう。
 
国会炎上のニュースを知ったデルマ―は支局から飛び出しタクシーを探したが見つからず、国会まで2・5キロを走りに走った。彼が現場についたのは火災発生から40分後だった。大勢の人が国会のガラス・ドームが火と煙に包まれているのを眺めていた。すると、警官の一人が「犯人の一人が捕まったぞ」と興奮して叫んだ。
 
国会の中には入れないので、周りの人を取材していると、午後10時30分、メルセデス・ベンツに乗ったアドルフ・ヒトラーが到着した。トレンチコートを着た彼は、国会の玄関の階段を二段ずつ駆け上がっていき、ヨーゼフ・ゲッペルス(ナチ党宣伝部長)とボディガードがそのあとを追った。玄関の入り口にヘルマン・ゲーリング(プロイセン州内相)がいるのが見えた。ゲーリングはデルマ―を見て、入るなと言いそうな気配だった。が、そのとき「デルマ―さん、今晩は」とヒトラーが言った。この言葉で彼は事件の現場に入ることができた。

「首相閣下、これは疑いもなく共産主義者どもの仕業です。放火犯のひとりを逮捕しました」とゲーリングがヒットラーに報告するのを、傍にいたゲッペルスとデルマーは聞いた。「何者だ?」とゲッペルスが尋ねると「まだ分からない」とゲーリングが答えた。

「他の政府機関の建物は大丈夫か」とヒトラーが質問した。「警察を総動員して、厳重な警戒態勢に入っています」とゲーリングが答えた。その会話を聞きながらデルマーは、彼等は共産党による武装蜂起を恐れていると思った。

ゲーリングの報告が終わると、彼らは、焼失物の瓦礫と悪臭の漂う煙の中、水浸しになった部屋や廊下を通って国会内を見て回った。ゲーリングは、放火は複数の共産主義者の犯行であることを確信しているようだった。しかし、デルマ―は単独犯でもおかしくないと思った。

階段を登ろうとしていると、貴族政治家のフランツ・パーペン副首相が現れた。彼はヒンデンブルグ大統領を夕食に招き接待しているときに、国会炎上のニュースを聞き駆けつけたのだった。ヒトラーは副首相に向かって「これは神のお告げだ。わたしはこれは共産主義者たちの仕業と信じているのだが、そうなら鉄拳でペスト菌を制裁しなくてはならない」と興奮して言った。

ヒトラーとゲーリングは、‘神のお告げ’に直ちに従うことを決めた。火災があったまさにその夜、ゲーリングの命令で政治警察(ゲシュタポの前身)が赤狩りを開始した。共産党員の公務員、国会議員、労働組合幹部、ナチズムに反対する社会民主党員や弁護士、医者、ジャーナリストなどが逮捕され牢に放り込まれた。その夜だけで数千人が逮捕され、その中には拷問にかけられ殺された者もいる。彼らは新設されたダッハウ強制収容所に入れられた。危うく逮捕を逃れた党員のなかに、戦後、東独の独裁者となったウルブリヒトがいた。

事件の翌朝の新聞は一斉に事件を大見出しで‘共産主義者の陰謀’と報じた。その朝、ヒトラーとパーペンはヒンデンブルグと面会し、年老いた大統領にナチスが作った布告を提出し署名を求めた。

ヒンデンブルグは布告にざっと目を通し署名した。この「民族と国家の保護のための大統領令」は、ドイツ民主主義への死刑宣告だった。なぜなら、この布告によって、ワイマール憲法が保障した市民的自由 (思想・言論・結社の自由など)が停止され、令状なしで逮捕・予防拘禁ができる警察国家が樹立されたからだ。

ドイツ国内では国会放火事件の背後には共産党がいるというプロパガンダを大衆は信じ、ヒトラー独裁への道を開いたが、外国でその陰謀説を信じる者はいなかった。逆に、国会付近で逮捕された若い元共産党員のオランダ人マリヌス・ファン・デア・ルッベ(24歳)は、ナチスの手先だと思われていた。事件は共産党の組織的犯行だと強硬に主張するヒトラーとゲーリングに、疑問を抱いた外国人は事件の黒幕はナチスだと考えたのだ。

3月5日の総選挙の3日前、デルマーはヒトラーをインタビューした。外国では国会放火事件の黒幕はナチスであると言われているがどう思うか、と彼が尋ねると、ヒトラーは共産党の陰謀である確かな証拠があると言い、怒り狂ってそれを否定した。ヨーロッパは根拠もなく自分を非難するより、共通の敵ボルシェヴィキに対する勇気ある行動に感謝すべきだ、とも言った。

ドイツで現在進行中の大量逮捕のあと、‘ドイツ版・聖バーソロミューの虐殺’があるのではないかとベルリンでも外国の主都でも噂されているが、と彼が尋ねると、ヒトラーは「民族と国家の保護のための大統領令」にあるように、国家の敵を新設される人民法廷で裁くからその必要はないと答えた。それを聞いた彼は、合法的虐殺で敵を殲滅すると言っているのと同じではないか思った。

市民的自由の停止はずっと続くのか、とデルマ―が尋ねると、ヒトラーは事態が沈静化したらできるだけ早く回復したい、と答えている。それは12年のちの彼の死まで待たなければならなかった。

3月5日の総選挙の結果、ナチスは44%の票を獲得し、ヒトラーは再び政権の座についた。過半数はとれなかったが、それは問題ではなかった。3月23日の午後2時、ドイツの運命を決める議会が開かれた。議場には107人の共産党と社会民主党の議員の姿がなかった。彼等の多くは逮捕、収監されていたからだ。身の危険を感じて欠席をした議員、亡命をした議員もいた。

国会議長に就任したゲーリングは、共産党が得た81議席は無効であると宣言した。(総議員数三分の二の賛成を得て全権委任法を通すための姑息な手段)。6時16分社会民主党の党首オットー・ヴェルが演壇に登った。そのスピーチは、ドイツが大量虐殺、世界戦争、廃墟への道を進む前の、ワイマール憲法援護の最後の演説になった。続いてヒトラーが怒号の演説をし,そのあと議会の立法権を剥奪し内閣に移管する議案が投票にかけられた。法案成立の条件である出席議員の三分の二以上の賛成444票、反対94で全権委任法が成立した。これはヒトラーに憲法を除くすべての法律を自由に公布できる権限を認める法案だった。ヒトラーの独裁がはじまった瞬間だった。
 
ナチスは矢継ぎ早に弾圧政策を打ち出した。4月1日ドイツ全土でユダヤ人の店、医者、弁護士をボイコット、4月25日ドイツの大学のユダヤ人学生の比率を1.5%へ、5月2日労働組合禁止、5月10日ドイツ各都市で学生がナチス指定の禁書を焼く、6月23日社会民主党を非合法化

翌年の8月2日、86歳のヒンデンブル大統領が死にヒトラーはその職を廃止して総統兼首相となりすべての権力を手中にした。16か月後、ドイツはポーランドを侵略、ホロコーストが始まった。そのあとなにが起こったか。6000万人の命が失われ、ヨーロッパ大陸が破壊されたのだった。



ヒトラーとゲーリング         The German Federal Archives


国会議事堂放火事件の真の犯人は誰なのか。これは今でも謎で論争が続いている。ナチスの自作自演なのか、共産党の陰謀なのか、あるいは事件直後逮捕されたデア・ルッベによる単独犯なのか、という点だ。ナチスは共産党の騒乱だと断定し、共産党は事件の黒幕はナチスだと糾弾し、事件直後の国際世論もこれを支持していた。
 
デルマーは、デア・ルッベの単独犯説を確信していた。その理由は、彼を繰り返し尋問した二人の政治警察の捜査官の調書が、犯行はひとりによるものだと結論づけているからだ。あんな大火事を一人で起こせるはずはないとの疑問に対して、捜査官は彼が放火して廻ったという経路をストップオッチで計り、複数犯説を否定している。捜査官のひとりがオランダに調査に行ったとき、現地の新聞に‘単独犯の仕業だ’と言ったことを知ったゲーリングは激怒して、捜査官を直ちに帰国させている。共産主義者の陰謀だと主張している彼の逆鱗にふれたのだ。
 
裁判でナチスは科学鑑定の結果を捻じ曲げ、証拠を偽造し、‘単独ではできない’という結論を鑑定官に偽証させ、共産党が首謀者であるとの判決を下した。が、共産党の陰謀の確固とした証拠を示すことはできないままだった。デア・ルッベは死刑判決を受け斬首された。
 
一方、共産党はナチスこそ事件の黒幕だとのプロパガンダ作戦にでた。ベルリンの赤狩りの網から逃れパリに居を構えた共産党員ウィリー・ミンツェンベルグは、同志とともにナチスの自作自演を証明する 『ドイツ国会議事堂放火事件とヒトラーのテロ調査報告書』(The Brown Book of the Reichstag Fire and Hitler Terror 1933年)を刊行し国際的ベストセラーとなった。しかし彼と交流のあったデルマーによると、その内容たるや都合のよい脚色がされている信用できないものという。例えばこの本によると、ベルリン消防長官が国会内に入ると、すでに20人以上のSA(ナチス突撃隊、反対勢力に対するナチスの武闘組織))がいたということになっているが、そのとき現場にいた彼は一人のSAも見かけなかったと反論している。しかし、世界中の読者がこの本を信じ、事件の黒幕はヒトラー、ゲーリング、ゲッペルスだという見方が定説になったという。
 
戦後、ドイツの歴史家の間で単独犯説とナチス黒幕説の論争が続き、60年代にシュピーゲル誌が主催した真相解明委員会が単独犯説を支持したので、これが定説になったかのように見えた。英国の歴史学者イアン・カーショーは最も優れたヒトラー伝(Hitler: 1889-1936 Hubris,1998年)の著者として知られているが、彼もまた単独犯説をとっている。
 
しかし、2001年ドイツでナチス陰謀説を裏付けるという800頁の大著『国会議事堂放火』が刊行され国際的ニュースになった。この本は、歴史家 バーハルと物理学者クーグルが、1989年ベルリンの壁が崩壊するまでモスクワと東ベルリンのアーカイブが保管していた事件に関する裁判記録、国家検察局、ゲシュタポ(国家秘密警察)の5万頁のファイルを精査して書いたものである。著者は、状況証拠からすると放火はナチスが計画し実行したものだと結論づけている。
 
発掘された資料によって分かった新事実をいくつか挙げてみよう。

火災の6時間前に、デア・ルッパを尋問したルドルフ・ディ―ルス(のちの初代ゲシュタポ長官)は次のような電報をプロシアのすべての警察署に送っている。‘共産主義者が警官とナチス突撃隊員の武装解除を試みる可能性がある。直ちに反撃体制をとれ。彼等を予防拘禁せよ’。著者は、事件が起こると直ちに赤狩りが始まった手際のよさは、ナチスの関与を示す証拠だという。さらに、戦後、単独犯説が流布された背景には、陰謀に深く関わったディ―ルスの証言を信用した結果でもあると言う。
 
著者はデア・ルッパの放火の足取りを徹底的に調べあげ、強度の視覚障害があった彼があの広い国会を走りまわり12-3分で火を付けてまわることはできない、ヒトラー、ゲッペルス、ゲーリングが国会炎上のニュースを聞き‘おどろいた’というのは神話であると言っている。
 
事件直後、政治警察の弁護士であったハンス・バーント・ギセヴィウスはニュールンべルグ裁判(1946年)で次のように証言している「国会放火を思いついたのはゲッペルスだった。彼はSAの幹部と相談し、10人の突撃隊員が大統領府から地下道を通って国会にちん入し放火する計画を策定した。はじめから共産主義者の犯行にすることが決まっていた」。
 
1934年夏、400万人の隊員を擁するSAの指導者レームのクーデター計画を事前に察知したヒトラーは、SA幹部数百人を粛清・処刑したが、そのなかに放火の陰謀に加担したすべての突撃隊員(ひとりを除いて)も入っていた。証拠隠滅のためだった。

これで真相が究明され長年の論争にピリオドが打たれたかというとそうではない。この著作が刊行された直後、シュピーゲル誌は10ページをつかって反論し、単独犯説を主張しているから、まだ決着がついたわけではない。しかし、この事件で明らかなことは、ナチスが犯行を共産党のせいにして血の弾圧で政敵を壊滅し、独裁への地歩を固めたことある。


ダッハウ強制収容所跡で黙祷するメルケル首相と車椅子のマンハイマー The Telegraph


8月20日、ドイツのアンゲラ・メルケル首相はミュンヘン郊外にあるダッハウ強制収容所跡を訪問し、4万人の犠牲者に追悼の花輪を捧げた。彼女の隣には、かつて囚人だった車椅子に座る93歳のマックス・マンハイマーの姿があった。メルケルは旧収容所の壁を前にして「収容者の運命を思うと、非常に悲しく、恥ずかしい思いでいっぱいになる」「ドイツ人はかつて人種、宗教、政治的信条を理由に、人間の尊厳と権利を否定した。なぜあんな極端なことができたのか。旧収容所は、再びあのようなことを起こさないための、われわれ一人ひとりへの警告だ」と語った。
 
ダッハウ収容所は80年前の1933年にヒトラーが政権を取った直後に開設されたもので、ドイツ国内とヨーロッパ各地に作られた強制収容所のモデルとなった建物だ。
 
強制収容所はナチス・ドイツの極悪非道の象徴として知られるが、その類似施設の数が大小合わせて42500(強制収容所980、強制労働キャンプ30000、ユダヤ人ゲットー1150など)もあったという。このショッキングな数字は、今年の春、ホロコースト博物館(ワシントン)が13年かけて調査し公表したものだ。ベルリンだけでも3000カ所もあり、死者の総数は推定1500万―2000万という。
 
悪の帝国ナチスから学ぶべきものはなにもない。それを、麻生太郎は‘改憲はナチスから学べ’と言ったものだから、世界の顰蹙(ひんしゅく)を買い、日本の国際的な信用は地に落ちた。こんな男が副総理兼財務相をしている日本は一体どういう国なのだろう?日本人は一体何を考えているのか?われわれと共通の価値観をもっているのだろうか?と疑われているのだ。
 
そもそも彼の放言‘誰も気がつかないうちに、ワイマール憲法は変わっていた’は、歴史事実への無知からきたものだ。事実は、国会放火事件の騒然たる空気のなか、ヒトラーは謀略と暴力を使いワイマール憲法を葬り去ったのである。
 
「若いころ、麻生太郎はスタンフォード大学やロンドンの大学に留学したというのに、なにを勉強したんだろうね」とわたしが嘆くと「マンガばっかり読んでいるんじゃないの」と大阪の友人は苦々しく言った。
 
今回の麻生発言は恥ずべきことだ。歴史音痴でこの国の信用を失墜させた彼に日本を代表する資格はない。
 
 

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著者プロフィール

土野繁樹(ひじの・しげき)
 

フリー・ジャーナリスト。
釜山で生まれ下関で育つ。
同志社大学と米国コルビー 大学で学ぶ。
TBSブリタニカで「ブリタニカ国際年鑑」編集長(1978年~1986年)を経て
「ニューズウィーク日本版」編集長(1988年~1992年)。
2002年に、ドルドーニュ県の小さな村に移住。