2012.04.22 sun

ネットを「ほんもの」にする5つの視点

ネットを「ほんもの」にする5つの視点


週刊現代2012年3月3日号
対談:中沢新一vs内田樹




あえて対談の本旨を飛ばして、ネットについての気になる発言だけ取り上げます。
(発言の一部を意訳をしています)

「なぜ脱原発が日本人に根づかないかというと、
民意もそれを形成するメディアも日和見だから」(中沢)

「庶民の声に批評性を期待するのは無理」(内田)

「ネットは、呪いの言葉が匿名で飛び交う空間で、
僕自身は積極的に入っていこうとは思わない」(中沢)


「僕は平気。テレビに出ないし、ネットに書かれた
悪口も読まないから」(内田)


「膨大な日和見細胞(意訳=確固とした意見を持たない
庶民)を善玉(意訳=正しい批評性を確立した文化人、
またその意見に賛同する庶民)に変えるのは、
あのメディア(意訳=インターネット)ではないか」(中沢)


「僕はその点は懐疑的だな。たしかにネットには破壊する
力はある。でも、新しいものを創造する力はそれほどない。
壊すほうが作るよりはるかに簡単だから」(内田)

 



みなさん、どう思いますか?
ネットとリアルを連動させて、新しい創造の場を構築することは可能でしょうか。
そのためにできることはなんでしょうか。

5つの視点で考えてみます。


1.新しいメディアへの対応力

新しいメディアに対して、こういう批判は必ず出てくるものだと思います。印刷物が出てきたとき、ラジオやテレビが出てきたとき、前のメディアで育った人の多くは、新しいメディアを嫌がりました。それは、ある意味、しかたのないことです。なぜならメディアは言語に近いからです。

若いうちに、それに親しんでしまえば感覚として使えるようになるけれども、ある程度、年をとってから、新しいメディアを感覚として取り入れるのは非常に難しいものがあります。

日本人同士の会議なら日本語ですべて済ますことができたのに、トップが外国人に代わり、突然会社の公用語が英語になったようなものです。英語が苦手というだけでなく、なんでトップひとりのために不便な状態を我慢しなければいけないのか、という不満が生まれる心理と、どこか似ています。

そういう意味で、著名なおふたりの対談が、時代の変化についていけない“団塊世代の戯言”と揶揄されかねない内容になっているのは残念です。進歩から逃げないで、もっともっと若い世代に知恵を授けてほしいと思います。

新しいメディアには、それにふさわしい表現方法があります。文化と伝統の中に打ち込まれるテクノロジーのくさびが、新種の”言語感覚”を呼び覚ますのです。それを高度で洗練されものにし、伝統を刷新していくのが、創造的な文化というものです。


2.新しい技術が成熟するまでの時間

ネットの中が問題を多く含んだ世界だということは事実ですが、だからネットは破壊が得意で創造には向いていない、ということにはならないでしょう。鉄道や航空機などの新しい技術が成熟するには200年かかる、と安全学の畑村先生は言っています。人類はこれまで試行錯誤しながら技術やインフラの在り方を発展進化させてきました。

インターネットが一般に使われるようになってまだ10数年しか経っていませんが、大変急速に普及しており、今やネットなしの生活は考えられません。多くの人たちは、ネットにネガティブな側面があれば、それを回避したり、新しいやり方で克服していき、少しずつでも良くしていこうと思っています。

人々がこうあって欲しいというネットの姿が大きくなれば、自然と、そのようになってくるのではないでしょうか。そのためには、そのようなネットの姿を示すこと、そして、それに賛同する人を増やしていくことが必要です。

時代の変遷を俯瞰すると、大きな変化は20年ぐらいの単位で起きているように見えます。Web2.0と呼ばれるネット上の双方向性が明確に実現したのが大体2005年ごろです。実は、インターネット環境が本当に人々にとって身近でなくてはならないものになってからは、まだ10年も経っていないのです。

これからの10年、20年は、ネット環境を中心とした新しい言語体系が発展し、コミュニケーションの在り方も変化し、結果として社会の在り方に大きな変革がもたらされる時代になるのではないでしょうか。


3.知識人の立ち位置

いわゆる知識人や文化人と呼ばれる知的エリートは、一般大衆(庶民、普通生活者)を見下す傾向があります。庶民の多くが日和見である、というのは多分あたっているでしょう。しかし日和見だから愚か、ということはありません。本当に庶民が愚かであったなら、民主主義という制度は機能しないことになります。

私たちは、東日本大震災で政府も中央官庁も東電も機能しなかったことを知りました。しかし、被災地で協力し合って日本の危機を乗り切ったのは、現地にいた名もない庶民ひとりひとりが示した、高い倫理観と利他の精神であることも知ったのです。自衛隊、消防、警察や地元自治体などは、きわめて困難な一つ一つの現場で、丁寧で人間性に溢れた活動を粘り強く展開しました。企業でも、本社の指示が届かない中でいち早く自主的な活動を展開した現場の人々の逸話には事欠きません。

日本人は、お互いが置かれている状況を読み合って、自然発生的に協力し合う文化をもっています。知識人は、そうした日本人の優れた文化特性を軽視し、「庶民は自分たちが学び考察してきた高踏な知識を知らない愚かな存在」と見下す傾向があります。

しかし、知識人が、選ばれたエリートの目線をはずし、普通の人々のフィールドに本当に降りてこない限り、社会を変えることはできないでしょう。どんなに知識があり、高度な評論はできても、普通の人々はその内容に、心から耳を傾けることはないからです。

高名な知識人は、もっともっとネットにも庶民にも入り込んで、得てきた知識や見てきたことを教えてほしいと思います。そして、未来に期待する発言をしてほしいと思うのです。


4.「衆愚」から「衆知」へ

昔は、知識人の知識や教養と比べて、一般の人々が知り得ることには、雲泥の差がありました。今日は違います。驚くほど多くの情報がネットで瞬時に手に入ります。世界中の大学が、競ってシラバス(講義要綱)をネット上に公開する時代です。学ぶ気持ちさえあれば、誰でも知識や教養を自由に身に着けられるのです。

少なくとも知識人が、知識の「量」で勝負できる時代は終わりました。これからは、本当の意味で知識の「質」が問われる時代となります。それは言い換えれば、知識が知恵に変容する時代ということです。知識は、純粋な好奇心、探求心によって得られるものであり、かならずしも何かの役に立つことを前提としないものです。しかし知恵は、より良く生きていく上で役に立つもの、生活の糧となるものです。

庶民は、常に生活の知恵を積み上げてきました。知識人は、高踏遊民のように、そうして生活基盤から遊離したところで生きてきました。でも、これからは、庶民も知識人も、同じ土俵で協働する時代に入ります。なぜならネット環境が普通になると、どんな知識も隔離することができなくなるからです。

そうした時代には、普通の生活者の「愚かさ」も「賢さ」も、自分の一部であると、知識人自らが自覚する必要があります。一般の人々を、「衆愚」(愚かな大衆)と見るか。それとも「衆知」(たくさんの人々が知恵を出し合うこと)の源と期待するか。ネット時代の立ち位置は、後者であるべきではないでしょうか。

この立ち位置が決まると、知識人の本当の務めが見えてきます。それは「衆知」の時代のファシリテーターになること。ファシリテーターとは、「中立な立場を保ち、議論のプロセスを調整し、相互理解を深め、合意形成を促進する役割を負った人」です。それは、「あるべき姿を教え導く人」から、「一緒に考え行動する人」への転換です。


5.創造と破壊のプロセス

そうは言っても、ネットにはさまざまな情報が飛び交い、何が真実かわからない混とんとした空間でもあります。ただネットの中を泳ぎ回るだけでは、正しい知識や教養が身に着くわけではありません。それどころか、流言飛語、呪いの言葉の応酬、炎上といったネガティブな現象が繰り返さるのがネット環境の特徴とさえ言える状況です。

知識人の新しい役割に期待すると言っても、そうした取組が普通のことになるには、まだ少し時間がかかるかもしれません。「衆知の時代」を本当に迎えるためには、それ相応のプロセスを覚悟する必要があります。創造の前にはたいがい破壊があります。シュンペーターが提唱した「創造的破壊」が、世界を発展させ進化させていくダイナミクスになっていることは間違いありません。

問題は、ネット環境の創造性がどのように具体的に創り上げられていくかです。既に成功しつつある事例や仕組みや方法論に多くのヒントがあります。たとえば、ウィキペディア、リナックス。あるいは、ゲームフィケーション(ゲームの仕組みを使って問題解決する手法)で世界中の10万人が参加して、AIDS薬のための分析を半年で成し遂げた例。

もちろん、これらの事例の中にもたくさんの問題があると思います。しかしそこが着眼点かもしれません。ネガの事例の奥にはかならずポジにするヒントがあります。こうしたネット上の成功事例を見ると、知識人が普通生活者と協働し、「衆知」を引き出す仕組み作りとファシリテーションに尽力する事例がこれから増えるのではないか、と期待できます。

ネットという広大な世界の中に、新しい創造の場を創っていくのが時代の潮流です。

 

「男は建設すべきものも、破壊すべきものもなくなると、
非常に不幸を感じるものである。」
【アラン】(フランスの哲学者、『幸福論』の著者)
 

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